• 2018年8月8日

    平成30年第18回「帯にまつわる話」エッセイ入賞作品

    先日、弊社にて第18回「帯にまつわる話」エッセイコンテストの表彰式を行いました。

    たくさんのご応募をいただいた中から見事入選されました皆様の作品をご披露させていただきます。

     

      

       『受け継がれる帯』

       滋賀県

        T.T.

     「帯は俳句といっしょで季語が要る」とは、米寿を迎える祖母の言葉だ。着物は帯で季節感を表す。春なら雛や桜、秋なら紅葉やすすき。私は祖母の後ろ姿で、季節の移ろいを感じて育ったような気がする。昭和一けた生まれの祖母は、平素はしまり屋だが、正月には必ず帯を新調した。畳の部屋に美しくさーっと流れる帯の川。六畳間は、たんすから引っ張り出した帯の色・色・色でたちまち埋めつくされる。続いてシュッシュと帯を締める小気味のよい音。祖母の柳腰には本当に帯がよく似合う。

    しつけ糸の端っこを、どなたか「いい人」に取ってもらうと、願いがかなう…結納の日、私の帯を結んでくれた祖母は、目立たない場所にほんのちょっとだけ糸を残しておいてくれた。果たして祝いの席で、婚約者はその糸くずを目ざとく見つけ、照れくさそうにそっと取ってくれ、私は晴れがましい気持ちでいっぱいになった。祖母は嫁入り道具にと、花うさぎのやお手玉模様のや、蝶々の柄のや、自分の大切な帯をいくらか譲ってくれた。帯のよいところに、人から人へ譲れるということがある。何かあたたかなものが綿々と受け継がれていくような心持ちだ。

    この冬風呂場で倒れてリハビリ生活を余儀なくされている祖母は、もう帯を結ぶ手が回らないと淋しそうにぽつりと言った。私はこのことがきっかけで、今度は私が祖母に帯を結んであげようと決心した。まだまだ初心者の私が着付けをすると、手が震え、心臓がどくどく鳴るばかりで、帯はちっとも動いてくれない、ということになりがちだ。まだまだ勉強がいる。それでも私は帯結びをあきらめない。それは、帯という一枚の川のなかに、どれだけの心と手と時が入っているか、知っているからだ。

     

          『まなざしの帯』

    HP写真2大江様

        兵庫県

      大江 美典


    )

      息子が茶道教室に通うことになった。目に眩しい真っ白な靴下に履き替え、教室に通う姿を目にすると、その成長に胸が熱くなる。

     そして昨夏、星まつりの夜にお茶席の手伝いをすることになった。ドレスコードは浴衣。甚平しか持っていない息子の為にインターネットで帯と浴衣のセットを慌てて購入する。

     早速届いた浴衣と帯のセットを前に私は頭を抱えてしまった。丈もぴったりな浴衣には何一つ問題ない。けれどセットの兵児帯がペラペラのひどい粗悪品だったのだ。

     私が途方に暮れていると、父が一本の兵児帯を黙って差し出した。

     困惑する私にこの兵児帯は自分の父親のものだと、父は言葉少なに語った。

     父の父、つまり私の祖父は四十歳と言う若さでこの世を去った。

     そんな祖父が自宅でくつろぐ時はいつもこの帯を締めていたことを思い出したらしい。

     試しに息子にあわせてみると、少々長めではあるものの幅広の帯は生地もやわらかくきつく締まり過ぎると言うことがない。息子もとても快適そうであった。

     後日、祖父の帯を締め私たちの元へお茶を運んで来た息子は柔和な笑みを浮かべ、とても落ち着いた様子であった。その姿に不思議と、会ったこともない祖父の姿が重なる。

     「しっかりと勉強しなさい。」

     祖父は今際の際に、そう父に言い残したと聞いている。小さな息子を遺してこの世を去らねばならなかった祖父はどれほど無念だったことだろう。

    だからこそ父を私を息子を、ずっと見守ってくれているのではないか・・・・・・。祖父の帯を締めた息子の姿を前に、私は改めてそう感じた。

    これからも息子が祖父の帯を締める度、私はそこに祖父の日だまりのようなやさしい眼差しを感じるだろう。祖父は常に、私たちと共にある。

     

     

         『首里織の帯』

     HP写真2江上様

       兵庫県             

    )      江上 由希子

      大学卒業式の日。そこそこ広いリゾートホテルの中で、私は母に袴を着付けてもらっていた。私の母は着物が好きで、だから着物は母の締縄模様の深紅の着物で、私の祖母も着物が好きで、だから袴は祖母から貰った小紫色の袴だった。そして帯は、昨日母に買ってもらった私の帯。それは、沖縄の首里織だった。黄を基盤に、黄・緑・赤・紫の4色で手織りされている半幅帯で、その色がなんとも艶やかで可愛らしい。

     ここは沖縄。

     私は、沖縄高専進学のために家を出てから大学生活に至る7年間を沖縄で過ごし、ついに、卒業式を迎え、飛び立とうとしていた。

    「高校からよく1人で頑張ったと思うよ。帯も記念に買ってあげられて良かった。」

    母と、その後ろの窓から見える眩しい青い空を見て、私は笑んだ。

    「ありがとう」

     まだ三月なのに、空は輝き、長い長い沖縄の夏はもう始まろうとしていた。

    式場に着くと、式は、沖縄らしく緩やかに人が集まり、滞りなく進み、終わっていき、私は友だちと共に式場隣の海へ向かった。袴で、ブーツで、歩き、帯下が汗ばみ、手で袴を捲り上げ、エメラルドグリーンの海から続く砂浜に立ち、写真を撮った。

    ひと通り撮り終えると、私は、確認するように帯をちらりと見て、鼻から入る潮の味を飲み込み、じっと海を眺めた。

     時の流れに触れた気持ちになった。

     母の着物に、祖母の袴に、そして、その間からちらりと見える、首里織の半幅帯。二人が歩んできた人生に、私もひっそりと混ざり合い、また知らぬ間に進んでいく。

     7年間私を照らしてきた太陽に手をかざす。これから始まる長い夏の事を私は知っている。

    ―でも、もう、お別れ。

     帯を手に持ったまま那覇空港に着くと、無事に卒業できた安堵と、穴があくような物寂しさが胸に渦巻き、私の部屋に帰りたくなった。

     だけど、もう沖縄に私の部屋はなかった。

     だから、私は飛び立った。これから共に時を流れる首里織の帯と一緒に、飛び立った。

     

       選 

          『娘の姿』

    大口様

       東京都                                          

        R.O.

      草履についた鈴のちりんちりんという音とともに、帯のかざり紐がゆらゆらと揺れる。鶴の刺繍がほどこされた朱色の作り帯。三十年前、私が七五三のときに使ったものだ。

    「この帯、お腹の子が女の子だったらちょうだい」

    妊娠初期、実家に帰ったときに母にお願いした。きっと女の子が産まれる、そんな気がしていたのだ。そうして、ずいぶん気が早いけれども、母子で着物を着るのだと楽しみにしていた。

     まだまだ覚束ない足取りで、草履をはいた足を前後に動かす娘。不意に立ち止まって私を見上げ「どう?おび、すてきでしょう?」と背中に手をやりながら言った。「うん、すてきすてき・・・」答えながら、目頭が熱くなるのをこらえきれず、私は娘から顔をそらした。

     

    「もしかしたら、歩けないかもしれない」

     乳児健診で、医者からそう言われた。頭が真っ白になった。娘は身体発達が遅く、首が据わったのは生後七ヶ月のときだった。すぐに大学病院を紹介してもらったが、結局、原因は分からなかった。とにかく不安から逃れるように、その日から娘のために主人と二人、奔走した。リハビリや療育センターはもちろんのこと、整体やマッサージなどの民間療法にも手を伸ばした。

     毎晩泣いて過ごしながら、それでも笑いかけてくれる娘のためにやれることは全てやろうと決めていた。娘は私たちの気持ちに応えるように、少しずつだけど成長していった。主人と心から喜びながらも、あまりに遅い成長に、歩ける日はくるのだろうかという不安もあった。

     

    その娘が、今、目の前で歩いている。それも着物姿で。二歳頃に歩き出したから、まだまだ歩き方が幼いけれど、もう十分。これ以上、何を望むことがあるのか。

    また娘が歩き出す。ちりんちりん。ゆらりゆらり。時折、背中に手を当てて帯を確認する。ちりんちりん。ゆらりゆらり。娘の姿をしっかり目に焼き付けておこうと、あふれる涙をぬぐった。

     

     

        『彼女の帯』

       愛知県 

    )   勝野 文隆

      彼女は、畳の上で帯を締めていた。真っ白な道着の上から、ぎゅっと、帯の両はしを引っ張り、のしっ、のしっ、と立ち上がると、相手をキッと睨みつけた。「やーっ」と彼女は叫ぶと、相手の襟袖をあっという間に掴み、次の瞬間、ふわりと相手は宙にまった。

     彼女は、柔道部の先輩だった。県内では、少し名が通っていて、全国大会にも何回か出場していた。彼女が、僕の彼女となったのは、僕が大学一年生で、彼女が大学4年生の時だった。二人で行った遊園地で、僕がそっと手を握ったのが始まりだった。

     それから5年間、僕は彼女と過ごした。たくさん喧嘩をし、たくさん泣き、たくさんの何もしない時間を過ごした。だらだらと時間は流れていったが、それは、少しずつ増える十円玉貯金のように、確実に何かが溜まって行く時間だった。僕がのんびりと大学生を満喫している時間、彼女は、バリバリと仕事をし、職場の中でも頭角を表すようになっていた。柔道に限らず、彼女に僕が勝るものはほとんどなかったが、それが嫉妬や劣等感に変わることはなく、純粋に尊敬と愛情が僕の中に育まれて行くことが不思議だった。

     僕が社会人になって2年、僕は、彼女と結婚することにした。彼女も、僕と結婚することにした。それは、とても自然な流れで、どちらがプロポーズをするでもなく、色々なことがとんとんとんと進んでいった。

     

     僕は今、白い紋付と袴を着ている。隣には彼女がいる。彼女は、帯に手を当てている。柔道の帯ではなく、漆黒の着物に浮かぶ、金色の帯だ。彼女の着物好きな母親のこだわりの一品だ。紫の飾りがとても映えている。彼女が僕を見る。長いまつげに、雫がついている。彼女が、僕を見てふわっと笑う。つられて僕も笑う。係りの女性が、僕と彼女の衣装や髪型を念入りに整えてくれる。太鼓の音がなり、扉が開く。眩しい。扉の先には、たくさんの顔がある。僕らと共に歩んできてくれた人たちだ。僕は彼女の帯に手を添えた。僕らは、深くお辞儀をし、共に一歩を踏み出した。

     

     

         『間に合った安堵』

     北澤様

      神奈川県

      北澤 杏里

     実家の兄から電話があった。母が食べ物を受けつけない、という。私はすぐに帰省した。すると母はもう旅立ちの準備を始めていて、私を認識しても言葉を返すことはない。その夜、私は眠る母に語り続けた。何よりも親不孝への懺悔。そして、ありったけの感謝。

    「世の中には偉い人たちがたくさんいるでしょ。でもね、宇宙で一番偉い人はお母さんよ! 私を生んで育ててくれて本当にありがとう」

     驚くことに、その瞬間、眠っている母の胸が大きく膨らみ、深い呼吸をした。それはあらゆる心配を手放した安堵の呼吸のようだった。母の魂が私の声を聞いていたにちがいない。

     それから間もなく、清々しい五月の風を受けながら母は穏やかに旅立った。

     紫の青海波模様の着物がよく似合う母だったから、倉から着物を出し、母に着せて化粧をした。綺麗ね、お母さん。素敵よ、お母さん。

     ふと気づけば、私には喪服がない。今から東京へ戻り、とんぼ返りするには無理がある。妹に相談すると「お姉さまの喪服、用意してあるって、お母さん、言ってた!」という。急いで倉の二階へ駆け上がる。そこには、私専用の和箪笥がある。「お嫁に行く時に持っていくのよ」と、幼少から日本舞踊を学び、十代で名取りになった私のために母があつらえてくれた晴れ着がたくさん仕舞われている。しかし、私は独身。着物は倉の箪笥に仕舞われたままだ。

     数年ぶりに引き出しを開ける。むきだしのままぽんと置かれた黒の名古屋帯が目に飛びこむ。その下に真新しいたとう紙がある。中にはしつけ糸が付いた喪服があった。古典模様の黒帯は母の物だ。使い込んだ風合いがある。母はすぐ分かるように帯をそのまま置いたにちがいない。

     母は私が次に着物を着るのは喪服だと分かっていたのだろうか。 自分の箪笥から黒帯を出し、娘の箪笥に移しながら、母は何を想っていたのだろう。膝を痛めてからというもの、倉の急な階段を昇ることができなかった母。どうやってここへ来たのだろう。私は箪笥の前で涙した。

      葬儀の日、私は着物姿で式に臨んだ。見上げる故郷の大空に、母の眩い笑顔が広がっていた。

     

       

           『春を呼ぶ帯』

    HP写真中村様HP写真2中村様

       青森県

       中村 文子     

     二月、私の住む東北の北のはずれの街では冬の寒さが一層厳しくなり、忍耐と辛抱の精神で、冬を乗り越えようと覚悟を決める月でもある。しかしその一方で、寒さの中、春を呼び込む伝統芸能『えんぶり』が開催される月でもあり、春を待ちわびる心で、寒い中でも心がほっと温まる月でもある。

     八戸市の伝統芸能『えんぶり』は、春から始まるコメ作りの年間の農作業のようすを、そろいの藍染めの半纏、袴、脛当てに、烏帽子をかぶった勇壮な、太夫と呼ばれる成年男性の踊り手が、三人一組となって踊ってみせるものである。

    烏帽子は彩色も鮮やかであり、烏帽子の前に着けた、五色の房飾りが、激しい踊りの度にかぜになびく姿はたいそう印象深いものである。

     冷え込みの厳しい凛とした空気の中、シャイギと呼ばれる杖上の道具の金属音も心地よく響く。踊ることを、この催事では『摺る』という。躍動感溢れる一斉摺りはまさに圧巻の踊りで、見ごたえがある。春を待ちわびる気持ちを体いっぱいに表現するものであり、それは見ている者の気持ちとシンクロしてさらに盛り上がるものである。

     そんな二月の始めのある日、私はなじみの呉服屋に立ち寄った。店の女将さんはいつもながらのおしゃれな和服姿であったが、よく見ると、帯の柄に『えんぶり』の踊り手太夫が、躍動する姿が描かれている。風に靡く烏帽子の房飾りも素敵である。また帯地は春らしい桜色であり、女将さんの粋な地元愛が感じられた。女将さん話では展示会で店に呼んだ帯作家に頼んで、オーダーしたものだという。さすがに老舗呉服や女将さんらしいセンスの良さと粋な計らいに驚かされた。また一足早く春を見つけた気がして嬉しくなった。

     私にとっては二月は印象深い月になりそうだ。

     

       

        『一本の帯との出会いから』

    HP写真藤田様

        東京都  

        藤田 佳子

    () これと言った反抗もせず、親に決められたレールを歩く人生も悪くなかった。母の一言で四歳の誕生日、近所の尼寺で茶道を習い始めた。毎日曜日、早起きして着物を着る、おかげで中学生の頃には一人で着付けができ、私にとって着物は制服の様なものだった。

    しかし、ある時から急に目覚えたおかしな違和感。そして着物と自分自身がしっくり合わない不快感。茶道から帰るなり着物を脱ぎ捨て、素の自分に戻りほっとする。何故だろう。その答えはすぐにわかった。親の好みで揃えた淡く優しい色合いの着服ばかり、それを邪魔しない同じ様な帯たち。

    「私、もっと違った色の着物が着たい。個性的な帯を付けてみたい。」

    と、思うばかりで親には決して言えず、感情を押し殺したまま相変わらずの脱個性。そんな自分に嫌気がさしいつしか着物に当たり、そして遠ざける様になってしまった。

     そんなある日、親戚から形見分けとして一本の帯が送られてきた。純白の地に墨色で荒々しく描かれた竹の柄。所々に付いたしみ、長年の折りじわ、決して上等な品ではない。だが、私の心は一瞬でこの帯のとりこになった。乱暴にささくれたこの竹は、なんて自由に自分の思うままに強く生きているのだろう。母はこの帯嫌いだろうな、と付けるのをためらう私にささやく。

    “今、変エナキャ、自分ニ素直ニナラナキャ前ニハ、ススメナイヨ”

     己の意志もなく流されてきた私に、荒竹の帯は挑発してくる。よし、その挑発に乗ろうじゃないか。この帯と一緒なら、自由で素直な世界に踏み出せる気がした。すぐさまこの()()を鏡も見ず一心不乱にまとった私は、ものすごい前向きなパワーに満ち足りていた。

     一本の帯との出会いから、初めて素直な自分を表現できた十七の春。

     

     

        『婚礼衣装に』

    HP写真2三浦様

      東京都

        三浦 舞日

    ()()()

     結婚式の衣装を決めかねているとき、祖母の結婚写真を思い出した。角隠しに黒引き振袖の、若き祖母が写っている。写真は白黒だったが、祖母が

    「本家からここまで、歩いてお嫁入りしたんだよ」

    と話す「本物の嫁入り行列」を鮮やかに想像して、「いいな」と思ったのだ。それで、私も黒引き振袖を着ることにした。

     レンタルで着物、小物と次々決めていく中でふと思いたち、帯は自前のものを結えないだろうか、と衣装さんに頼んでみた。その帯というのが、母が私の結婚のために誂えてくれた着物の帯だ。着物は「お召」という種類で、着物好きの母のセンスで選んだもの。やさしく、渋くも見える色使いと柄は私が見ても品のある華やかさで、「一生ものだよ」と念を押された。それを花嫁衣装にとはいかないが、帯だけでも、結婚式という一生に一度の機会で初めて身につけ、感謝を表せたらと思ったのだ。

     衣装さんはもちろんと言ってくれたが、実際に帯を見てもらうと、黒引きに定番の「立矢結び」に長さが足りないという。がっかりして諦めかけたのだが、「他の結び方でも大丈夫、この帯はこの黒引きにとても合うよ」という言葉に救われた。当日は、文庫の形で結んでもらうことにした。

     式当日、実は緊張と着付けの苦しさで、幸せいっぱいの時間を満喫できなかったというのが正直なところだ。写真はこわばった表情ばかり。後々、500枚ほどのそれらの中からアルバムに入れる写真を選んでいて、苦笑いした。アルバムができても見返すだろうか、とさえ思ってしまった。それでも、夫に

    「どうしてこの写真入れるの、後ろ姿なのに」

    と言われて譲らなかった一枚がある。着物からドレスにお色直しをするため、披露宴会場を中座する私の写真だ。羽を大きめに作った文庫の帯が私の後ろ姿を飾り、付き添う母の手が背に添えられている。

     写真に写っていたのは、花嫁の母の気持ちだ。娘が花嫁に、と私を誇る気持ち、この日を待っていたとしみじみ思う気持ち、そして、最後まで支えて送り出したいという気持ちが伝わってきたのだ。

     伝統の衣装、心に残る祖母の花嫁姿、夢見たこの日。外国の花嫁の伝統「サムシングフォー」ではないけれど、帯が決め手となって、思い出深い花嫁姿が叶った。大切なものたちが結婚を祝福し、嫁いでゆく私の背を支え、押してくれたと信じている。

     

     

         『出会い』

      神奈川県

         森 衣里                 

    中学生になり、初めて友達だけで行くことを許された夏祭り。大型スーパーで買った浴衣に、セットのつくり帯を巻いて出かけたら、友達の方はなんだかおしゃれな結び目。

    「おばあちゃんが、着付けの先生だから。」

    羨ましく思い、彼女の濃い落ち着いたピンクの帯をじっと見る。どういうものなのかはもちろん、さっぱりとわからないけれど、明らかに自分がしているものとは違う、上等なものだということは見た目だけでわかった。

    それから15年。以来浴衣や着物とすっかり無縁な生活を送っていたけれど、ある日偶然デパート内の呉服屋を通りかかると、マネキンが身につけている、あの濃ピンクの帯によく似たものが目に留まった。

    (着てみたい……。)

    突如、気持ちはむくむくと膨らんでゆく。すっかりと忘れた気でいたのに、あの時の羨ましい気持ちは私の中できっとずっと、くすぶり続けていたようだ。

    「こちらの、帯をください。」

    浴衣は安いものでいい。いっそ中学生の頃の……、さすがにそれはまずいかな。友人の結婚式用のドレスを買いに来たはずなのに、さらなる思わぬ出費。けれど不思議と後悔はない。やっと出会えた。どこかでそう、感じた気がする。

    夏祭りに行く予定なんてまるでないけれど、これからつくればいい。あの鮮明な気持ちを思い出させる帯と出会えたのはきっと、運命みたいだから。

    それからはトントン拍子で事が進んだ。慌てて手頃で、帯に合いそうな色合いの浴衣を探し、着付け教室を見つけ、帯の締め方を習い、浴衣を着て花火大会へ出かけた。休日は疲れているからと、寝てばかりいる夫との久しぶりのデートだった。

    「着物似合うね。帯が特に、可愛い。」

    夫にもわかるようだ。少しほこらしげにいいでしょと、返す。

    帯を買って以来、浴衣、着物と次第に興味の範囲が広がった。自然、着て行ける場所、今まであまり行かなかった花見や祭りをはじめ、伝統芸能などの日本文化へも。一本の帯が十五年の時を経て今、私の世界を広げつつある。

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