• 2015年10月23日

    平成27年第15回「帯にまつわる話」エッセイ入賞作品

    先日、弊社にて第15回「帯にまつわる話」エッセイコンテストの表彰式を行いました。

    たくさんのご応募をいただいた中から見事入選されました皆様の作品をご披露させていただきます。

     HP用

        

    『万燈籠の金魚』

    桑理様

    奈良県  

    ()()(桑理 孝子  様

     奈良の夏は暑い。近頃はとみに暑い。昼間のアスファルトの熱気が夜になっても辺りに漂い、夕涼みなどという言葉は死語になってしまったのかとさえ思う。

     お盆の夜のことである。春日大社で行われる中元万燈籠は、参道から境内に至る三千基の燈籠全てに浄火が灯り、その年も沢山の人出で賑わっていた。

     参拝者の中には、最近はやりの浴衣姿の若い人も多く見掛ける。人熟れの中、皆一様に団扇をぱたぱたさせながら、カラフルな浴衣地を汗でじっとり体にへばり付かせて気だるそうに歩いて行く。

     そんな蒸した闇の向こうに、白々と涼やかな一人が見えた。近付くと、朱と黒の金魚が二尾、心地良さそうに泳いでいる。

     白地の絽の着物に、金魚の描かれた帯を締めた、女性のうしろ姿であった。楚々とした雰囲気と、お太鼓に揺れる優雅な尾ひれが、夜目にもはっきり見て取れた。

     ふとそこに、冷えた水音を聴いた気がした。

     年の頃は三十代か。豊かな髪を高く結い上げ、うなじの清潔感も好ましい。その涼やかな着こなしに、私は暫し見惚れてしまった。周囲を行き交う人々も、皆ちらりちらりと彼女を見やる。隣を歩く男性は、何とはなしに得意そうな様子である。

     夏は、綿の浴衣より絹の着物の方が涼しいと聞いたことがある。帯で体の脇をしっかり締めると額に汗が出難くなり、程よい緊張感が背筋をすっと伸ばしてくれると。

     そして選ぶ絵柄で季節をまとい、自分も遊び、周囲の見る眼も楽しませる。

     きちんとしていて、粋でおしゃれで涼やかとは、夏の着物は“クール()ズ ”とは言えまいか。

     南門に近付く頃には、二尾の金魚は人に紛れて見えなくなった。替わって今度は、吊り燈籠の朱色の浄火が、私を境内へと(いざな)った。

     

    『金婚の帯』

     松川様

    兵庫県

    松川( 千鶴子 様()

      「買いもんに付いて来てくれんか。」祖父から突然言われ、当時高校生だった私は、祖父が買い物なんて珍しいと思いながら「いいよ。」と軽く返事をして、バスに乗り、電車に乗って二人して街に出掛けた。

     祖父は街に着くと、一軒の呉服屋さんに入り、帯が欲しいと注文した。店員さんは、てっきり孫娘のために来店したと思い、可愛い花模様や華やいだ柄の帯を手際よく並べた。祖父は「いや、ばあさんのが欲しい。」と、言った。店員さんは、直ぐさま娘の柄から、まるで手品のように鮮やかに上品な柄の帯を並べ替えた。そして、「これらの帯は何にでも合いますよ。」と、にこやかに説明した。祖父は私に選んでくれと言った。「えっ?」私は戸惑った。急に選べと言われても・・・。そう思いながらも、祖母に一番似合いそうな帯を選んだ。若草色に孔雀の羽根柄をさりげなくあしらった金と銀糸の刺繍、祖母ならきっとこれを選ぶだろうと思った。

     綺麗に包装してもらった帯を抱えての帰り道、「金婚なんじゃぁ。」と、祖父はちょっと照れて呟くように言った。「今まで、帯の一つも買うてやれんかった。ばあさんには苦労ばかりかけて・・・。」無骨な明治男の祖父の目に薄ら涙が浮かんでいた。

     貧しい農家の六男の祖父に嫁いだ祖母、夜明け前から深夜まで働き詰めでも食べていくのが精一杯だった。「たった一枚の写真館で撮った小さな写真でも、帯がないから胸から上しか撮れなかった。」と、祖母は口癖のように言っていた。祖父は、それをずっと気にしていた。祖父は、内緒で金婚のお祝いに帯を買い求めたのだった。

     そして、金婚記念日、祖父は、祖母に手を震わせながら帯を手渡した。祖母は家族みんなの前で号泣した。あれから四十数年が経ち、金婚の帯は私が祖母の形見として持っている。その帯を締める度、祖父と出掛けたあの時の光景が懐かしく目に浮かぶ。

     

     

    『母たちの友情』

     足立様(3)

    鹿児島県

    足立() 朱麻 様()()

       40歳を過ぎた頃から、着物姿で出かけてみたいと思うようになり着付け教室に通うことにしました。日常でありながら非日常的な魅力、日本人本来の美しさ和モダンに魅了され始めたのもこの頃からです。

     私が好きで締めている帯に母の﨟纈染めの羽織をリメイクした帯があります。子供の頃母が好んで羽織っていたその色は、昭和という時代そのものの。濃淡の薄い色は珊瑚色を渋くしたような、濃い方は海老茶色のようななんとも微妙な色合いに、私好みの帯締めを会わせると母とのコラボ、この1本から私の嬉しゐ着物遊びは広がるのです。

     数年前、親しい方へ送る年賀状に私の着物姿の写真でご挨拶をした時のこと、奈良に住む母の友人からしばらくしてこんな葉書が届きました。

     「あなたのお召しになっているものに見覚えがあります。その帯、私と色違いで染めた羽織ですね。」

     今にも声が聞こえてきそうな懐かしさいっぱいのお文、母にたずねればこちらも満面の笑みで篤くこみ上げてくる想いに尽きることのない思い出話。私が幼かった頃のこと、小学校の卒業式、観劇に出かけたこと、そしてその羽織を縫ってくれたのも友人であったことなどなど、帯はいつしか羽織に戻り、羽織を羽織っていた頃の若い母に戻っていました。一本の帯が母たちの友情を、三人三様の想いを鮮やかに繋げてくれたのでした。

     あらためて思います。着物の文化は時間を超えてその人の想いを托せる美との共演であること、そしてそのことに触れる機会を得た今に私は感謝したいと思います。価値観が多様化した昨今だからこそ如何なる時も自分らしく装うことができる、強くしなやかに凛と背筋を伸ばして帯を締めている女性でありたい。そのように願い精進して参りたく思います。

     

     

    『勘当を解いてくれた岩田帯』

    岩谷様

    三重県 

    岩谷( 隆司 様()

     バツイチの私と、十七歳年下の彼女との結婚は、友人も周りの人も大反対であり、彼女の親は激怒し彼女は勘当され家を出て来た。

     一九八三年一月、結婚式も新婚旅行もなしで二人は、反対を押し切って籍を入れた。

     会社では仲間から「夜は大丈夫か」という話や、いつ別れるかの賭けをしている噂が耳を痛めた。

     そんな中、結婚二ヶ月後の三月ベルギー駐在の辞令が降りた。

     見送る人は誰もいなかったが、反対する人よさらば、嫌な噂よさらばとばかり二人は晴晴とした気持ちで機上の人となり新天地へと飛び立った。

     新婚旅行に行けなかった二人にとって、ベルギー駐在は神様が与えて下さった新婚旅行でもあった。

     休日には、陸続きのオランダ、ドイツ、フランスへと高速道路を百数十キロで走り旅を楽しんだ。

     一九八三年十二月末、妻は妊娠二ヶ月目に入ろうとしていたことが判った。

     明けて一九八四年元旦、妻にお義母さんに妊娠したことを知らせることを勧めた。勘当された妻は、電話を掛けることをためらったが、私は背中を押すように電話を入れた。

     勘当されても親子は親子である。妻はお義母さんの声を聞いてボロボロと涙を流した。

     妊娠の知らせを聞いたお義母さんから、四ヶ月後小包が届いた。開けて見ると岩田帯である。身体を大切にするように、との手紙が添えられていた。妻は岩田帯を抱いて泣いた。

     五ヶ月に入った戌の日、私は妻のお腹に胎児を労るようにして岩田帯を巻いた。検診の日、医師も看護師も不思議がったが、日本の風習を話すと「それはいいね」と言ってくれた。岩田帯は寒い国にとって大変役に立った。

     九月二十三日娘誕生、お義母さんに電話すると「必ず見せにおいで」と言ってくれた。勘当を許された瞬間に私は男泣きをした。

     

     

    『二人三脚』

    大阪府

    たずこ 様

     「卒業式に、着物着ない?」

     ママ友からのメールに、胸が高鳴った。

     お宮参りで着て以来、タンスで眠っていた薄い紫色の私の着物。結婚してすぐに、同居する主人の母が買ってくれた。

     家事も育児も、この義母と共にやってきた。

     ただ、この二人三脚は少し頼りなかった。特に着物に関しては不安な思い出があった。

     お宮参りの時に義母と着付けを頑張ったが、失敗。写真スタジオでの撮影の際に帯がほどけて、スタッフに直してもらったのだ。義母と私、二人揃うといつも「何か」ある。

     それなのにまた私は着物を自分で着てみたいと思った。義母も前回の失敗のショックが薄れているようで、手伝うと言ってくれた。

     念のためパソコンで検索すると、数多ある方法から、洗濯バサミを使った二重太鼓結びを見つけた。まずは一人で、三日目からは義母の手を借りて、四日間練習を重ねた。見慣れない動画に老眼をしょぼつかせながら、義母は根気よく付き合ってくれた。

     おかげで当日、着付けはスムーズに進んだ。

     背中に垂らした帯を、腰の位置で洗濯バサミでキッチリ仮止めし、仕上げも上手くいった。お腹の真ん中で、薄い紫の大きな丸模様が、細かい金や銀や白を纏って煌めいていた。

     「キレイキレイ!上出来や!」

     義母と喜び合った。

     ママ友には「自分達で着たよ」と自慢した。

     感動の卒業式を終え帰宅し、伸びをして帯を解いた。と、左腰でカチッと固いものに当たった。瞬間、青ざめた。

     洗濯バサミだった。ぎゃあと声をあげた私に、義母は大笑いして言った。

     「全然見えてなかったから大丈夫」

    そうだったらいいけど・・・安心できない。

     洗濯バサミをつけた着物姿の私の記念写真を眺めると、ため息が漏れた。それでも。

    それでも、よく頑張った。私達は頑張ってきた。一区切りついたこの日、義母と頑張った思い出を、また大切に心にしまっておこう。

     

     

    『若気の至り』

    三森様 (3)

    栃木県

    三森() 尚美 様()

     いつの間にか、2人の娘の成人式も過ぎた私は、いい年のおばさんだ。そんな私が、帯と言うと、自分の成人式の事を思い出す。いやはや、忘れられないのは1番に母であろうとは、思うのだけど。とにかく、何十年経っても忘れられない振袖の帯の話は、タイムスリップする事、27年。

     1月生まれの私は、まだ19歳。社会人になり、初めて、お付き合いしているという状況に浮かれている中の成人式。一通りの式が終わり、写真撮影後、彼のお迎えで、隣町の花市へ。

     華やかな振袖姿は、目を惹き、写真撮ってもいいですか?と、おまわりさんと一緒に、ハイポーズ、まるで芸能人、浮かれっぱなしだ。その後、彼の家に行き、ご挨拶。お姉さんに「綺麗ね」と言われて嬉しいやら、照れるやら。彼が家に送ってくれた頃には、とっぷりと日も暮れ、辺りは真っ暗になっていた。

    自宅玄関先での挨拶と同時に、「どこ行ってたの!!」と、鬼瓦のような母。その後コンコンと続く説教から解放された私は、自室で、怒りに任せ帯をほどいた。と、次の瞬間、戸口で呆気にとられる母の顔、そして、また、怒り顔。「遅いけど、おばあちゃんに連絡して、やっと見に来られるって喜んでいたのに、あんたって娘は!!」聞けば、祖母は、近くもない我家と祖母の家とを自転車で、何度も行き来し、私の帰りを待っていたのだそうな。

     私の振袖は、貸し衣装だったが、仕立ておろしで、帯も着物も、何も分からない私でさえも惚れ惚れした。一日貸して頂くだけだったが、あの当日、相当のお値段だったと聞かされた。式前から、話を聞いていたのだろう、この日を楽しみにしていてくれた祖母に、見せる事なく、私は、帯をほどいてしまった。残念な事に写真の着物姿しか祖母は見ていない。

    苦い思い出だが、母は、私より、先に娘達に、その話をし、何度も何度も怒りを再現させていた。とても綺麗な帯の模様を、今も私は、昔々の若気の至りの出来事と共に覚えている。

     

     

    『パリに伝わった帯』

     東京都

    宮本( 倫好 様()

      明治の祖先が着た着物が、織り直されて帯になり、とうとうパリ在住の玄孫にまで伝承された。使い捨てが当たり前の時代に、私は改めて日本文化が持つしなやかさと強靭さを実感した。それを契機に、娘は西陣織の魅力にとらわれ続けている。

     西陣近くに住んでいた妻の祖母は、娘(妻の母)が結婚する時、着物を裂織(さきおり)で帯に作り直して持たせた。「本当は西陣の帯を上げたいのやけど、貧乏でご免な」と謝り、せめてもの古着を再生した帯に、我が子への思いを託した。妻の母が八四歳で死んだ時、妻はこの帯を母の形見として受け取った。それを二つに切り、一つをわが家に、残りは娘に贈った。

    外国で大学教育を受けた娘は、パリにある国際機関に勤めているうちに英国人と結婚した。夫は日本酒、茶道、盆栽など、あらゆる日本の伝統文化に造詣が深かった。この結婚のお陰で、娘も日本の伝統文化に改めて強い関心を示すようになった。娘は母にもらった裂織の帯を居間に飾った。これは双子の娘たちに対する日本文化教育の資料になり、併せて外国人の来客に故国の伝統を説明する一助になった。

     ある時夫が「空蝉の唐織ごろもなにかせむ綾も錦も君ありてこそ」という和歌に言及したので、娘はびっくりした。十四代将軍・徳川家茂の妻和宮が亡き夫を偲んで詠んだ和歌だ。生まれ故郷の名産・西陣織を京都土産として頼んでいたのに、家茂は大坂城で亡くなったため、形見になった悲しみを歌ったものだ。娘にすれば、まさか英国人の夫がこの和歌を知ろうとは。後日夫婦で京都と訪ねた時、娘は西陣織の袋帯を記念に買った。

     娘の子どもたちはもうすぐ中学生だ。娘が買い与えた西陣織のゆかたをパリの学校で行われる国際デーで級友たちに披露しては、羨ましがられている。「この子たちが結婚する時には西陣織の着物を」というのが今の娘の夢だ。裂織に託すしかなかった貧しい先祖から五代目を、西陣織の着物、帯で装わせる夢も、いつかきっと実現すると娘は確信している。

     

     

    『伝え継ぐもの』

     森様 (2)

    大阪府 

     ( 敬子 様()

     そのさくら色の帯は、うちの箪笥の奥にひっそりとある。

    うちがまだ赤ちゃんの時、おばあちゃんがくれはってんて。

    「いいもんやから、初孫にやる。」

    おばあちゃんには五人の孫ができたけど、抱いてもらえたのはうちだけやった。六十になるやならずで亡くならはって、明るくて上品な人やったという話だけが、今でも語り草になっている。 

    せやけど、おばあちゃん、この帯はあかん。全然たらへんねん、長さが。お太鼓にだって結ばれへん。

     なぁ、おかあちゃん。おばあちゃんは太ってはった()うたやん。親類縁者で一番太かった()うたやん。うちはそれより太いんか。それはないわぁ、笑わんといてぇや。

     おばあちゃん、ほんまはうち、知ってるねん。この帯、おばあちゃんも締めてへんのやろ?だって、祈り跡の気配すらない。

     「少し短いですかなぁ、公家のおひいさんのご注文かもしれませんなぁ。そんな時は、身にあわせ、同じ(もん)を何本か織る事もありまっしゃろ。一番いいのを納めて、その残りがおうちに来ましたんやないやろか。」

    呉服屋さんはそう()うて、

    「どないしはるか」って聞きはった。

    帯を切って伸ばしてもいいんやって。

     切るというのが忍びなくて、こっそり出しては眺めてた。それで、やっぱりおばあちゃんも、同じ気持ちやったんや、と気づいてん。

     なぁ、おばあちゃん、もうええか。

    思いきって切ってええやろか。

    来春は娘も成人式。うちに度量がのうて躾も充分できてへんけど、このさくら色の帯、飾り結びに締める時には、美しいものを愛で、愛おしんで託してくれたおばあちゃんの気持ちだけは、うち、きっと娘に伝えるし。

     

     

    『孔雀の帯』

    静岡県

    わたなべ みさと 様

     後輩の結婚式の招待状が来たのは私が着付けを習い始めて少しした頃だった。講師の先生に、「折角だから振袖を着ていきなさいよ、着付けてあげるから」と言われて、その場のノリで快諾した。それなのに家に帰ってから20代後半にもなって振袖なんておかしいんじゃないかしらと不安になって

     「振袖 何歳まで」

    と検索ワードに打ち込んでみたものの後ろ向きな回答がずらりと並ぶ。そもそも先輩が振袖ってイタいのではないか。未婚であることを主張してがっついているように見え、いやらしい気すらする。そんなことをぐるぐる考えているうちに時間だけが過ぎ、心にかかったもやもやが晴れないまま結婚式当日をむかえ、しぶしぶ先生の元へ向かった。振袖に袖を通すのは成人式以来で、自前とは言っても元々レンタル用のものを母がいたく気に入った為急遽格安で購入した品だ。特に母は、若い女性向けのレンタル品にしては一風変わった帯に夢中になり、その帯を買うために振袖を一式買い取ったといっても過言ではない。

     「素敵な帯ね」

    マットな風合いの赤い振袖に件の帯を合わせるところだった。黒地に、金銀緑、黄色にピンクと、とりどりな刺繍が施されている。一見派手に見えるが着物に合わせると落ち着いて見えるから不思議だ。

     「この柄、孔雀の羽かしら」

    言われてみて初めて気付いたが、雄の孔雀が求愛するときに広げる豪華な羽のようなデザインであった。あっという間に仕上がった私の姿は、成人式の日と同じ着物を着ているのに、全く違う人のようだった。

     「ついでに貴方もこれで、しっかり求愛してきなさい」

    そう言って先生に送り出された。27にもなって振袖を着て、なんて言っているけれど本当は誰よりも婚期を過ぎてしまいそうな年齢を気にして、恋愛に積極的に慣れなくて、それでいて後輩に次々と先を越されて卑屈になっている私を見透かされたようだった。きっと、大丈夫。この帯が母の目をくぎ付けにしたように、私にだってきっと未来の大切な人に見つけてもらえるはず。式場に向かう私の背筋がピンと伸びていたのは、帯を締めた所為だけではない気がした。

     

    『黄色いペア・ルック』

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    山口県

    藤瀬() めぐみ 様

     私は父母の離婚の為、まだ乳児とも呼べる幼い頃に、父子家庭世帯の子どもとなった。もの心ついてからは、母親がいなくて可愛相と回りの大人達がよく口にしていたが、父は愛情深く私を育ててくれたし、祖母もいたので、寂しい思いなどはほとんどしなかった。

     そんな私だったが、七才の時、真底、父親しかいない身の上を嘆いてしまうような出来事が起きてしまった。

     あれは、明日から私の住む町の夏祭りが始まるという日、父が、商店街の呉服屋で、私の大好きな月見草と同じ黄色の帯を買ってくれた。他にも、おもちゃやお菓子などいろいろ買ってもらって、私はすっかり上機嫌だった。翌日からの夏祭りでは、父が慣れぬ手つきで着せてくれた、金魚の模様のゆかたに、あの黄色い帯をしめてもらって、本当にうれしい数日間を過ごした。

     数日たったある日のこと、そろばん塾から帰って来ると、私の黄色い帯が物干しに干してあるのが目に入った。あれ、変だな、私の帯は洗濯して、すでにタンスの中にしまってあるはずなのに・・・

     「京子(筆者本名)、お帰り・・・今日海に行って貝殻拾ったけ、後で洗って干しちょき!!」夏休みの宿題の材料にと、父が近くの海岸で拾って来た貝殻の中には、私の好きな桜貝や紅貝もあったが、今はそれどころではなかった。嫌な予感がした。

     「お父さん、何で私の帯が干してあるん?」

     「あれ帯と違うど、わしのや・・・」

    私は血の気がひく思いがした。当時、私の父ぐらいの年代の男性の中には、「しめ込み」(ふんどし)をする習慣が残っていた。

     父は、あの時呉服屋で、自分のしめ込み用にもと、私の帯と同じ布を買っていたのだ。本当に嫌だった。そしてこの時ばかりは、

    「京子が嫌がるよ!!」と、一言注意してくれる、母親の存在を心から欲した。懐かしくて可笑しくて、ちょっと悲しい夏の思い出である。

     

     

     

     

     

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