• 2014年9月17日

    2014年度 特選受賞作品

      選    『金襴緞子の帯と玉子焼き』

    伊藤佳子 (埼玉県   七十三歳)

     

     六十七年前、私は七才だった。父は私が三才の時、たった一枚の赤紙で戦いに行ったきり私の七才の祝いの時も生死不明だった。

     私は二人の兄達の後に生まれた女の子。母は幼い時実母に死なれ、母には七才の祝いはなかった。やがて戦いは終ってもまだ日本国民の生活は貧しかった。こんな事情の中でも一人娘の私に晴着をとずっと思っていたに違いない。母のタンスに入っていた着物は大半が三人の子供の為に消えていた。

     私の晴れ着は母の妹である叔母の物だった。叔母にとって何枚もない着物の一枚だった。母は若い叔母と何を交換したのだろうか。着物の次には帯だ。付属品は近所のお姉さんのを借りた。帯はもうそこにあった。銀色に赤・黄・緑等可愛らしい小花の帯だった。叔母からの赤地のちりめん生地に良くにあう。七才の祝いも無事に済み、母のタンスの内には着物と帯が仕舞われていたので、帯は借り物ではない。でもその帯を締めたのは七才の祝いの日だけだった。

     横須賀の街の一角に俗にドブ板通りと言われる商店街がある。目の前は軍港があり、母の生家もその街中にあった。祖父は貴金属や時計等を商い職人も数人いた。戦い後はその一角の商店はスーベニ屋と呼ばれる外人相手の土産物屋の街となり、外人は日本の品が欲しく買い賑わった。母の生家も御多分に漏れなかった。或る日、母の生家のお店のショーケースの上にあの七才の祝いの帯を締めた私がいた。外人は「ワンダフル」と言った。その夜、食卓には厚い玉子焼きがのった。私には一切れ多かった。わかっていた。あの帯を外人に売った事を。私は悲しくも寂しくもなかった。父の生死不明の中、母の手一つで子供を守る事は大変だったから。

     父は無事に生還出来、私の祝いの写真を嬉しそうに見ていた。母の面影が浮かぶと年ごとに温もりを感じ、ふっとその中に玉子に消えた金襴緞子の帯が今もって思い出す。

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