• 2012年7月13日

    2012年度 優秀賞受賞作品
    『螺鈿の帯』
    古見 悦子(東京都)
    誰でも、何度か衝動買いの経験がある。見た瞬間、欲望を抑えきれずに買う行動だが、それとは別に、自分の内奥に潜む思いが買わせる衝動買いもある。螺鈿の帯がそうだった。
    ある年の一月、新宿のデパートで『新春きもの大市』が開催されていたので出かけた。その日は北風が強かった。
    催事場に入るや、店員がすぐに付いて、あれこれ勧めてくれる。でも今日は買うつもりはないので、適当に相槌を打ち、見て廻っていると、一本、目に留まった帯があった。銀白地に花菱の螺鈿が並んだ帯だ。螺鈿は知っていたが、帯を見るのは初めてだった。「職人の手間と技術を駆使して・・。」と説明する店員の言葉に頷ける芸術品だ。しかも品がある。だが値段を聞いて怯んだ。とても私が買える帯ではない。分不相応な帯だった。
    が、私は買ったのだ。衝動買いで!誠に不思議だが、その時、姉弟子の声がしたのだ。そして、グッと私の背を押したのだ。
    その声とは―。「退職したら買えないよ」「働いているうちが華だよ」というものだ。
    話は前日に遡る。初釜で茶事が終わり、社中の人と「衣類の断捨離」について雑談していた時、以前から実行している私が、「五年位で買い替えるべきよ」と言ったのが発端だった。七十代の姉弟子たちからブーイングが起こり、「あなたはまだ働いているからよ」と総攻撃を受けたのだ。私は定年を控え、その後の生活を模索していた時期だったので、退職後の現実を知ると共に、この言葉が心の奥に強く残ったのである。それが翌日の衝動買いへと繋がったのだった。
    人と物との出会いは、衝動買いのような一見偶然の出会いも、実は必然性があるように思えてならない。この螺鈿の帯も、けっして偶然ではなく、三十九年間働いたご褒美として、出会う運命にあったのだと、今は思う。そうであるならば、この螺鈿の帯を手本に凛として、品良く、残りの人生を歩みたい。
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