• 2011年7月8日

    2011年度 特選受賞作品 その2
    『叶えの帯』
    木下 さか江さん(神奈川県)
    「あんた、その帯、どうしたのさ」
    東京、日本橋の料亭で働く私は、すれ違いざま、二人連れの芸者に呼び止められた。
    世がバブル景気に沸く、今から二十年以上前の、ある夏も終わりの、宵だった。
    声の主は決して若くはないが、舞一筋。小柄でも、きりりと締めた夏帯の、涼しい立ち姿は、江戸前の意気と気迫を思わせた。
    「まちがいない。あの妓の帯だ」
    朱色地に、金銀の糸で、波と飛沫を大胆に刺し、お太鼓には、花と見立てた波頭を、三つ巴に軽快に踊らせる、絽の名古屋―。
    その私の帯を、老妓はかつての朋輩の帯だと言ってきかぬのだった。 老妓が、一日も忘れずにいる、妹のようなその芸妓(ひと)は、数十年前、花の盛りで関西へ行ったきり、以来、二人の間の音信は、全く途絶えてしまった、という。
    傍らの芸者は、常の威勢も構わず、友の消息を言い募る老妓に、咎めるような目を向け、
    「まさか…でなけりゃ、まるで…」
    と、言いかけ、ややして、ツルカメと唱えた。
    たちまち老妓は沈黙し、私も目を伏せた。
    思えば叶う。けれど、長い時をかけ、帯が主の身替わりとなって、旧知の人の前に現れるなど、考えられぬ話だった。
    《行く水に、移れば変わる…》常磐津の唄の如く、足早に時は去った。清洲橋近くの、あの料亭は跡形もない。帯の出所は、質屋だった。戦前から戦後しばらく、父方の親族が、兵庫県の芦屋で、商っていた店だった。知る限りの事実を、私はあの時、告げようとしたが、無性に帯がいじらしく思えて、とうとう言えずにしまった。
    箪笥の奥ですっかり出番を失った朱の帯は、穏やかに憩って見える。
    あらゆる物にも、生命が宿ると信じられたこの国には、不思議な巡り会いも多いらしい。
    帯との出会いを、ただ幸福と思うのみだ。
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