• 2009年7月10日

    2009年度 優秀賞受賞作品
    『名手の帯』
    仲村留香(東京都)
    帯を買いに行く時間が無いのだ。
    箏の発表会が刻々と迫り、仕事と合奏の練習に追われ時間が無い。今年はどうしても総絞りの紫の着物に合う帯を締めて舞台に上がりたいと思っていた。
    いよいよ発表会が二週間後と迫った日曜の深夜、何気なくインターネットを覗くと、あるオークションに出品されている袋帯に目が釘付けになった。
    濃い紫の地に黄金の箏が眩いばかりに大きく大胆に描かれている。その箏の周りに鼓と篳篥が金糸銀糸で艶やかに彩られ、調緒の渋い橙色が紫の闇に優雅に舞いあがる。帯そのものが華麗な音色を奏でているかのように映った。
    どうしてもこの帯が欲しい。時計と睨めっこで見えない相手と競いながら予算ぎりぎりいっぱいの数字を打ち込んだ。
    五日後。あの帯が手元に届いた。
    たとう紙をゆっくりと開くと、私は正座したまま一瞬、呼吸を忘れた。目の前に紫や金、銀、橙色が輝き舞いながら姿を現したのだ。
    モニターで見た以上の、それは素晴らしいものだった。手に取るとずっしりと絹の重みが伝わる。こんなにもどっしりとした帯を身につけるなら、箏も相応の弾き方をしなければならないではないか。自らハードルを上げてしまった私はその夜、押し手の左手指が痺れるまで箏を弾いた。
    そうして迎えた発表会当日。暗闇と静けさの中、天鵞絨の緞帳があがった。その時、舞台の最前列に座った私の耳に客席から、ほうと溜息が上がるのが聞こえた。緊張が一気に高まってしまう。ところが、弾き始めると不思議な事にこの帯が自分の拙い音色を守ってくれている気がしてきたのだ。
    その数分間、私は箏の名手になったような気分だった。
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