帯にまつわるエッセイ大賞

  • 2018年8月8日

    平成30年第18回「帯にまつわる話」エッセイ入賞作品

    先日、弊社にて第18回「帯にまつわる話」エッセイコンテストの表彰式を行いました。

    たくさんのご応募をいただいた中から見事入選されました皆様の作品をご披露させていただきます。

     

      

       『受け継がれる帯』

       滋賀県

        T.T.

     「帯は俳句といっしょで季語が要る」とは、米寿を迎える祖母の言葉だ。着物は帯で季節感を表す。春なら雛や桜、秋なら紅葉やすすき。私は祖母の後ろ姿で、季節の移ろいを感じて育ったような気がする。昭和一けた生まれの祖母は、平素はしまり屋だが、正月には必ず帯を新調した。畳の部屋に美しくさーっと流れる帯の川。六畳間は、たんすから引っ張り出した帯の色・色・色でたちまち埋めつくされる。続いてシュッシュと帯を締める小気味のよい音。祖母の柳腰には本当に帯がよく似合う。

    しつけ糸の端っこを、どなたか「いい人」に取ってもらうと、願いがかなう…結納の日、私の帯を結んでくれた祖母は、目立たない場所にほんのちょっとだけ糸を残しておいてくれた。果たして祝いの席で、婚約者はその糸くずを目ざとく見つけ、照れくさそうにそっと取ってくれ、私は晴れがましい気持ちでいっぱいになった。祖母は嫁入り道具にと、花うさぎのやお手玉模様のや、蝶々の柄のや、自分の大切な帯をいくらか譲ってくれた。帯のよいところに、人から人へ譲れるということがある。何かあたたかなものが綿々と受け継がれていくような心持ちだ。

    この冬風呂場で倒れてリハビリ生活を余儀なくされている祖母は、もう帯を結ぶ手が回らないと淋しそうにぽつりと言った。私はこのことがきっかけで、今度は私が祖母に帯を結んであげようと決心した。まだまだ初心者の私が着付けをすると、手が震え、心臓がどくどく鳴るばかりで、帯はちっとも動いてくれない、ということになりがちだ。まだまだ勉強がいる。それでも私は帯結びをあきらめない。それは、帯という一枚の川のなかに、どれだけの心と手と時が入っているか、知っているからだ。

     

          『まなざしの帯』

    HP写真2大江様

        兵庫県

      大江 美典


    )

      息子が茶道教室に通うことになった。目に眩しい真っ白な靴下に履き替え、教室に通う姿を目にすると、その成長に胸が熱くなる。

     そして昨夏、星まつりの夜にお茶席の手伝いをすることになった。ドレスコードは浴衣。甚平しか持っていない息子の為にインターネットで帯と浴衣のセットを慌てて購入する。

     早速届いた浴衣と帯のセットを前に私は頭を抱えてしまった。丈もぴったりな浴衣には何一つ問題ない。けれどセットの兵児帯がペラペラのひどい粗悪品だったのだ。

     私が途方に暮れていると、父が一本の兵児帯を黙って差し出した。

     困惑する私にこの兵児帯は自分の父親のものだと、父は言葉少なに語った。

     父の父、つまり私の祖父は四十歳と言う若さでこの世を去った。

     そんな祖父が自宅でくつろぐ時はいつもこの帯を締めていたことを思い出したらしい。

     試しに息子にあわせてみると、少々長めではあるものの幅広の帯は生地もやわらかくきつく締まり過ぎると言うことがない。息子もとても快適そうであった。

     後日、祖父の帯を締め私たちの元へお茶を運んで来た息子は柔和な笑みを浮かべ、とても落ち着いた様子であった。その姿に不思議と、会ったこともない祖父の姿が重なる。

     「しっかりと勉強しなさい。」

     祖父は今際の際に、そう父に言い残したと聞いている。小さな息子を遺してこの世を去らねばならなかった祖父はどれほど無念だったことだろう。

    だからこそ父を私を息子を、ずっと見守ってくれているのではないか・・・・・・。祖父の帯を締めた息子の姿を前に、私は改めてそう感じた。

    これからも息子が祖父の帯を締める度、私はそこに祖父の日だまりのようなやさしい眼差しを感じるだろう。祖父は常に、私たちと共にある。

     

     

         『首里織の帯』

     HP写真2江上様

       兵庫県             

    )      江上 由希子

      大学卒業式の日。そこそこ広いリゾートホテルの中で、私は母に袴を着付けてもらっていた。私の母は着物が好きで、だから着物は母の締縄模様の深紅の着物で、私の祖母も着物が好きで、だから袴は祖母から貰った小紫色の袴だった。そして帯は、昨日母に買ってもらった私の帯。それは、沖縄の首里織だった。黄を基盤に、黄・緑・赤・紫の4色で手織りされている半幅帯で、その色がなんとも艶やかで可愛らしい。

     ここは沖縄。

     私は、沖縄高専進学のために家を出てから大学生活に至る7年間を沖縄で過ごし、ついに、卒業式を迎え、飛び立とうとしていた。

    「高校からよく1人で頑張ったと思うよ。帯も記念に買ってあげられて良かった。」

    母と、その後ろの窓から見える眩しい青い空を見て、私は笑んだ。

    「ありがとう」

     まだ三月なのに、空は輝き、長い長い沖縄の夏はもう始まろうとしていた。

    式場に着くと、式は、沖縄らしく緩やかに人が集まり、滞りなく進み、終わっていき、私は友だちと共に式場隣の海へ向かった。袴で、ブーツで、歩き、帯下が汗ばみ、手で袴を捲り上げ、エメラルドグリーンの海から続く砂浜に立ち、写真を撮った。

    ひと通り撮り終えると、私は、確認するように帯をちらりと見て、鼻から入る潮の味を飲み込み、じっと海を眺めた。

     時の流れに触れた気持ちになった。

     母の着物に、祖母の袴に、そして、その間からちらりと見える、首里織の半幅帯。二人が歩んできた人生に、私もひっそりと混ざり合い、また知らぬ間に進んでいく。

     7年間私を照らしてきた太陽に手をかざす。これから始まる長い夏の事を私は知っている。

    ―でも、もう、お別れ。

     帯を手に持ったまま那覇空港に着くと、無事に卒業できた安堵と、穴があくような物寂しさが胸に渦巻き、私の部屋に帰りたくなった。

     だけど、もう沖縄に私の部屋はなかった。

     だから、私は飛び立った。これから共に時を流れる首里織の帯と一緒に、飛び立った。

     

       選 

          『娘の姿』

    大口様

       東京都                                          

        R.O.

      草履についた鈴のちりんちりんという音とともに、帯のかざり紐がゆらゆらと揺れる。鶴の刺繍がほどこされた朱色の作り帯。三十年前、私が七五三のときに使ったものだ。

    「この帯、お腹の子が女の子だったらちょうだい」

    妊娠初期、実家に帰ったときに母にお願いした。きっと女の子が産まれる、そんな気がしていたのだ。そうして、ずいぶん気が早いけれども、母子で着物を着るのだと楽しみにしていた。

     まだまだ覚束ない足取りで、草履をはいた足を前後に動かす娘。不意に立ち止まって私を見上げ「どう?おび、すてきでしょう?」と背中に手をやりながら言った。「うん、すてきすてき・・・」答えながら、目頭が熱くなるのをこらえきれず、私は娘から顔をそらした。

     

    「もしかしたら、歩けないかもしれない」

     乳児健診で、医者からそう言われた。頭が真っ白になった。娘は身体発達が遅く、首が据わったのは生後七ヶ月のときだった。すぐに大学病院を紹介してもらったが、結局、原因は分からなかった。とにかく不安から逃れるように、その日から娘のために主人と二人、奔走した。リハビリや療育センターはもちろんのこと、整体やマッサージなどの民間療法にも手を伸ばした。

     毎晩泣いて過ごしながら、それでも笑いかけてくれる娘のためにやれることは全てやろうと決めていた。娘は私たちの気持ちに応えるように、少しずつだけど成長していった。主人と心から喜びながらも、あまりに遅い成長に、歩ける日はくるのだろうかという不安もあった。

     

    その娘が、今、目の前で歩いている。それも着物姿で。二歳頃に歩き出したから、まだまだ歩き方が幼いけれど、もう十分。これ以上、何を望むことがあるのか。

    また娘が歩き出す。ちりんちりん。ゆらりゆらり。時折、背中に手を当てて帯を確認する。ちりんちりん。ゆらりゆらり。娘の姿をしっかり目に焼き付けておこうと、あふれる涙をぬぐった。

     

     

        『彼女の帯』

       愛知県 

    )   勝野 文隆

      彼女は、畳の上で帯を締めていた。真っ白な道着の上から、ぎゅっと、帯の両はしを引っ張り、のしっ、のしっ、と立ち上がると、相手をキッと睨みつけた。「やーっ」と彼女は叫ぶと、相手の襟袖をあっという間に掴み、次の瞬間、ふわりと相手は宙にまった。

     彼女は、柔道部の先輩だった。県内では、少し名が通っていて、全国大会にも何回か出場していた。彼女が、僕の彼女となったのは、僕が大学一年生で、彼女が大学4年生の時だった。二人で行った遊園地で、僕がそっと手を握ったのが始まりだった。

     それから5年間、僕は彼女と過ごした。たくさん喧嘩をし、たくさん泣き、たくさんの何もしない時間を過ごした。だらだらと時間は流れていったが、それは、少しずつ増える十円玉貯金のように、確実に何かが溜まって行く時間だった。僕がのんびりと大学生を満喫している時間、彼女は、バリバリと仕事をし、職場の中でも頭角を表すようになっていた。柔道に限らず、彼女に僕が勝るものはほとんどなかったが、それが嫉妬や劣等感に変わることはなく、純粋に尊敬と愛情が僕の中に育まれて行くことが不思議だった。

     僕が社会人になって2年、僕は、彼女と結婚することにした。彼女も、僕と結婚することにした。それは、とても自然な流れで、どちらがプロポーズをするでもなく、色々なことがとんとんとんと進んでいった。

     

     僕は今、白い紋付と袴を着ている。隣には彼女がいる。彼女は、帯に手を当てている。柔道の帯ではなく、漆黒の着物に浮かぶ、金色の帯だ。彼女の着物好きな母親のこだわりの一品だ。紫の飾りがとても映えている。彼女が僕を見る。長いまつげに、雫がついている。彼女が、僕を見てふわっと笑う。つられて僕も笑う。係りの女性が、僕と彼女の衣装や髪型を念入りに整えてくれる。太鼓の音がなり、扉が開く。眩しい。扉の先には、たくさんの顔がある。僕らと共に歩んできてくれた人たちだ。僕は彼女の帯に手を添えた。僕らは、深くお辞儀をし、共に一歩を踏み出した。

     

     

         『間に合った安堵』

     北澤様

      神奈川県

      北澤 杏里

     実家の兄から電話があった。母が食べ物を受けつけない、という。私はすぐに帰省した。すると母はもう旅立ちの準備を始めていて、私を認識しても言葉を返すことはない。その夜、私は眠る母に語り続けた。何よりも親不孝への懺悔。そして、ありったけの感謝。

    「世の中には偉い人たちがたくさんいるでしょ。でもね、宇宙で一番偉い人はお母さんよ! 私を生んで育ててくれて本当にありがとう」

     驚くことに、その瞬間、眠っている母の胸が大きく膨らみ、深い呼吸をした。それはあらゆる心配を手放した安堵の呼吸のようだった。母の魂が私の声を聞いていたにちがいない。

     それから間もなく、清々しい五月の風を受けながら母は穏やかに旅立った。

     紫の青海波模様の着物がよく似合う母だったから、倉から着物を出し、母に着せて化粧をした。綺麗ね、お母さん。素敵よ、お母さん。

     ふと気づけば、私には喪服がない。今から東京へ戻り、とんぼ返りするには無理がある。妹に相談すると「お姉さまの喪服、用意してあるって、お母さん、言ってた!」という。急いで倉の二階へ駆け上がる。そこには、私専用の和箪笥がある。「お嫁に行く時に持っていくのよ」と、幼少から日本舞踊を学び、十代で名取りになった私のために母があつらえてくれた晴れ着がたくさん仕舞われている。しかし、私は独身。着物は倉の箪笥に仕舞われたままだ。

     数年ぶりに引き出しを開ける。むきだしのままぽんと置かれた黒の名古屋帯が目に飛びこむ。その下に真新しいたとう紙がある。中にはしつけ糸が付いた喪服があった。古典模様の黒帯は母の物だ。使い込んだ風合いがある。母はすぐ分かるように帯をそのまま置いたにちがいない。

     母は私が次に着物を着るのは喪服だと分かっていたのだろうか。 自分の箪笥から黒帯を出し、娘の箪笥に移しながら、母は何を想っていたのだろう。膝を痛めてからというもの、倉の急な階段を昇ることができなかった母。どうやってここへ来たのだろう。私は箪笥の前で涙した。

      葬儀の日、私は着物姿で式に臨んだ。見上げる故郷の大空に、母の眩い笑顔が広がっていた。

     

       

           『春を呼ぶ帯』

    HP写真中村様HP写真2中村様

       青森県

       中村 文子     

     二月、私の住む東北の北のはずれの街では冬の寒さが一層厳しくなり、忍耐と辛抱の精神で、冬を乗り越えようと覚悟を決める月でもある。しかしその一方で、寒さの中、春を呼び込む伝統芸能『えんぶり』が開催される月でもあり、春を待ちわびる心で、寒い中でも心がほっと温まる月でもある。

     八戸市の伝統芸能『えんぶり』は、春から始まるコメ作りの年間の農作業のようすを、そろいの藍染めの半纏、袴、脛当てに、烏帽子をかぶった勇壮な、太夫と呼ばれる成年男性の踊り手が、三人一組となって踊ってみせるものである。

    烏帽子は彩色も鮮やかであり、烏帽子の前に着けた、五色の房飾りが、激しい踊りの度にかぜになびく姿はたいそう印象深いものである。

     冷え込みの厳しい凛とした空気の中、シャイギと呼ばれる杖上の道具の金属音も心地よく響く。踊ることを、この催事では『摺る』という。躍動感溢れる一斉摺りはまさに圧巻の踊りで、見ごたえがある。春を待ちわびる気持ちを体いっぱいに表現するものであり、それは見ている者の気持ちとシンクロしてさらに盛り上がるものである。

     そんな二月の始めのある日、私はなじみの呉服屋に立ち寄った。店の女将さんはいつもながらのおしゃれな和服姿であったが、よく見ると、帯の柄に『えんぶり』の踊り手太夫が、躍動する姿が描かれている。風に靡く烏帽子の房飾りも素敵である。また帯地は春らしい桜色であり、女将さんの粋な地元愛が感じられた。女将さん話では展示会で店に呼んだ帯作家に頼んで、オーダーしたものだという。さすがに老舗呉服や女将さんらしいセンスの良さと粋な計らいに驚かされた。また一足早く春を見つけた気がして嬉しくなった。

     私にとっては二月は印象深い月になりそうだ。

     

       

        『一本の帯との出会いから』

    HP写真藤田様

        東京都  

        藤田 佳子

    () これと言った反抗もせず、親に決められたレールを歩く人生も悪くなかった。母の一言で四歳の誕生日、近所の尼寺で茶道を習い始めた。毎日曜日、早起きして着物を着る、おかげで中学生の頃には一人で着付けができ、私にとって着物は制服の様なものだった。

    しかし、ある時から急に目覚えたおかしな違和感。そして着物と自分自身がしっくり合わない不快感。茶道から帰るなり着物を脱ぎ捨て、素の自分に戻りほっとする。何故だろう。その答えはすぐにわかった。親の好みで揃えた淡く優しい色合いの着服ばかり、それを邪魔しない同じ様な帯たち。

    「私、もっと違った色の着物が着たい。個性的な帯を付けてみたい。」

    と、思うばかりで親には決して言えず、感情を押し殺したまま相変わらずの脱個性。そんな自分に嫌気がさしいつしか着物に当たり、そして遠ざける様になってしまった。

     そんなある日、親戚から形見分けとして一本の帯が送られてきた。純白の地に墨色で荒々しく描かれた竹の柄。所々に付いたしみ、長年の折りじわ、決して上等な品ではない。だが、私の心は一瞬でこの帯のとりこになった。乱暴にささくれたこの竹は、なんて自由に自分の思うままに強く生きているのだろう。母はこの帯嫌いだろうな、と付けるのをためらう私にささやく。

    “今、変エナキャ、自分ニ素直ニナラナキャ前ニハ、ススメナイヨ”

     己の意志もなく流されてきた私に、荒竹の帯は挑発してくる。よし、その挑発に乗ろうじゃないか。この帯と一緒なら、自由で素直な世界に踏み出せる気がした。すぐさまこの()()を鏡も見ず一心不乱にまとった私は、ものすごい前向きなパワーに満ち足りていた。

     一本の帯との出会いから、初めて素直な自分を表現できた十七の春。

     

     

        『婚礼衣装に』

    HP写真2三浦様

      東京都

        三浦 舞日

    ()()()

     結婚式の衣装を決めかねているとき、祖母の結婚写真を思い出した。角隠しに黒引き振袖の、若き祖母が写っている。写真は白黒だったが、祖母が

    「本家からここまで、歩いてお嫁入りしたんだよ」

    と話す「本物の嫁入り行列」を鮮やかに想像して、「いいな」と思ったのだ。それで、私も黒引き振袖を着ることにした。

     レンタルで着物、小物と次々決めていく中でふと思いたち、帯は自前のものを結えないだろうか、と衣装さんに頼んでみた。その帯というのが、母が私の結婚のために誂えてくれた着物の帯だ。着物は「お召」という種類で、着物好きの母のセンスで選んだもの。やさしく、渋くも見える色使いと柄は私が見ても品のある華やかさで、「一生ものだよ」と念を押された。それを花嫁衣装にとはいかないが、帯だけでも、結婚式という一生に一度の機会で初めて身につけ、感謝を表せたらと思ったのだ。

     衣装さんはもちろんと言ってくれたが、実際に帯を見てもらうと、黒引きに定番の「立矢結び」に長さが足りないという。がっかりして諦めかけたのだが、「他の結び方でも大丈夫、この帯はこの黒引きにとても合うよ」という言葉に救われた。当日は、文庫の形で結んでもらうことにした。

     式当日、実は緊張と着付けの苦しさで、幸せいっぱいの時間を満喫できなかったというのが正直なところだ。写真はこわばった表情ばかり。後々、500枚ほどのそれらの中からアルバムに入れる写真を選んでいて、苦笑いした。アルバムができても見返すだろうか、とさえ思ってしまった。それでも、夫に

    「どうしてこの写真入れるの、後ろ姿なのに」

    と言われて譲らなかった一枚がある。着物からドレスにお色直しをするため、披露宴会場を中座する私の写真だ。羽を大きめに作った文庫の帯が私の後ろ姿を飾り、付き添う母の手が背に添えられている。

     写真に写っていたのは、花嫁の母の気持ちだ。娘が花嫁に、と私を誇る気持ち、この日を待っていたとしみじみ思う気持ち、そして、最後まで支えて送り出したいという気持ちが伝わってきたのだ。

     伝統の衣装、心に残る祖母の花嫁姿、夢見たこの日。外国の花嫁の伝統「サムシングフォー」ではないけれど、帯が決め手となって、思い出深い花嫁姿が叶った。大切なものたちが結婚を祝福し、嫁いでゆく私の背を支え、押してくれたと信じている。

     

     

         『出会い』

      神奈川県

         森 衣里                 

    中学生になり、初めて友達だけで行くことを許された夏祭り。大型スーパーで買った浴衣に、セットのつくり帯を巻いて出かけたら、友達の方はなんだかおしゃれな結び目。

    「おばあちゃんが、着付けの先生だから。」

    羨ましく思い、彼女の濃い落ち着いたピンクの帯をじっと見る。どういうものなのかはもちろん、さっぱりとわからないけれど、明らかに自分がしているものとは違う、上等なものだということは見た目だけでわかった。

    それから15年。以来浴衣や着物とすっかり無縁な生活を送っていたけれど、ある日偶然デパート内の呉服屋を通りかかると、マネキンが身につけている、あの濃ピンクの帯によく似たものが目に留まった。

    (着てみたい……。)

    突如、気持ちはむくむくと膨らんでゆく。すっかりと忘れた気でいたのに、あの時の羨ましい気持ちは私の中できっとずっと、くすぶり続けていたようだ。

    「こちらの、帯をください。」

    浴衣は安いものでいい。いっそ中学生の頃の……、さすがにそれはまずいかな。友人の結婚式用のドレスを買いに来たはずなのに、さらなる思わぬ出費。けれど不思議と後悔はない。やっと出会えた。どこかでそう、感じた気がする。

    夏祭りに行く予定なんてまるでないけれど、これからつくればいい。あの鮮明な気持ちを思い出させる帯と出会えたのはきっと、運命みたいだから。

    それからはトントン拍子で事が進んだ。慌てて手頃で、帯に合いそうな色合いの浴衣を探し、着付け教室を見つけ、帯の締め方を習い、浴衣を着て花火大会へ出かけた。休日は疲れているからと、寝てばかりいる夫との久しぶりのデートだった。

    「着物似合うね。帯が特に、可愛い。」

    夫にもわかるようだ。少しほこらしげにいいでしょと、返す。

    帯を買って以来、浴衣、着物と次第に興味の範囲が広がった。自然、着て行ける場所、今まであまり行かなかった花見や祭りをはじめ、伝統芸能などの日本文化へも。一本の帯が十五年の時を経て今、私の世界を広げつつある。

  • 2018年6月15日

    平成30年度 第18回「帯にまつわる話」入賞者発表

    平成30年度第18回「帯にまつわる話」にたくさんのご応募ありがとうございました。

    厳選なる審査の結果、以下のとおり受賞作品が決定いたしました。

     

    平成30年度第18回「帯にまつわる話」入賞者

    大賞『受け継がれる帯』T.T.さん 滋賀県

    優秀賞『まなざしの帯』大江 美典さん 兵庫県

    特選『首里織の帯』江上 由希子さん 兵庫県

    特選『娘の姿』R.O.さん 東京都

    特選『彼女の帯』勝野 文隆さん 愛知県

    特選『間に合った安堵』北澤 杏里さん 神奈川県

    特選『春を呼ぶ帯』中村 文子さん 青森県

    特選『一本の帯との出会いから』藤田 佳子さん 東京都

    特選『婚礼衣装に』三浦 舞日さん 東京都

    特選『出会い』森 衣里さん 神奈川県

     

    (五十音順)

  • 2018年1月9日

    「第十八回 帯にまつわる話」大募集

    おかげさまで「帯にまつわる話」エッセイも18回目の募集を数えることができました。これもひとえに着物や帯に興味をいだかれ、親しまれ、着物文化、帯文化、日本の和の文化にご理解のあるたくさんの皆様方のおかげと感謝いたしております。
    創業111年を迎え西陣帯地製造業「西陣まいづる」では、帯文化を後世に伝えるため、第18回「帯にまつわる話」エッセイを募集いたします。

    平成30年1月吉日

    《要 項》

    【募集内容】
    忘れることのできない帯の思い出、温めておいた帯への想い・あこがれ、エピソード。 帯にまつわることであれば内容は自由です。自作未発表作品に限ります。

    【応募規定】

    用紙は自由、ワープロ原稿も可能です。作品は800字程度で氏名、年齢、〒住所、

    職業、電話番号、題名を明記の上、郵便かメールで下記宛先にお送りください。

    メールで応募の場合は件名を「帯エッセイ係」として下さい。

    【応募資格】   不問

    【賞】
    選考委員会で審査し、入賞10点を選び、大賞1編に西陣まいづる謹製の錦地袋帯、優秀賞1編に同じく西陣まいづる謹製の更紗袋帯、特選8編に特製螺鈿帯留をプレゼントいたします。

    【締切】   平成30年4月23日(月)(当日消印有効)

    【発表】   発表は6月上旬、入賞者に通知し、ホームページに掲載いたします。

    【表彰式】  平成30年7月20日(金)予定

    【諸権利】
    入選作品に関する著作権、所有権及び諸権利は株式会社西陣まいづるに帰属します。

    エッセイ賞品画像

    大賞の副賞・錦地袋帯(左)と優秀賞の副賞・更紗袋帯(右)

    《作品送付先/お問い合わせ先》
    〒602-8446 京都市上京区五辻通大宮西入五辻町39

    株式会社西陣まいづる「帯エッセイ係」
    TEL:075-441-0001 Fax:075-415-0722
    E-mail:maizuru@nishijin.net

  • 2017年8月3日

    平成29年第17回「帯にまつわる話」エッセイ入賞作品

    先日、弊社にて第17回「帯にまつわる話」エッセイコンテストの表彰式を行いました。

    たくさんのご応募をいただいた中から見事入選されました皆様の作品をご披露させていただきます。

     

      

        『おばあちゃんの里帰り』

    HP用

       熊本県

          感王寺 美智子 様

      昨年六月、父が逝った。新潟の古く広い実家には、年老いた母一人となった。近くに住む兄夫婦が、自分たちの家へ来るよう、言うのだが、母は、一向に、首を縦に振らない。

    「来年になれば、美智子が帰ってくるから」

     私は、復興支援職員の夫と共に、気仙沼で暮らしていた。あと約一年の任期を終えたら、新潟の実家で、母と暮らすつもりだった。しかし、今度は、熊本地震がきた。私と夫に「気仙沼で、一から関わった復興支援の経験を、熊本で役立てるべきではないだろうか」という思いが沸きあがった。そして、人生最後の使命として、熊本行きを決めた。しかし、仏壇の父に、線香をあげながら、ひとり、私が帰るのを心待ちにしている母に、なかなか、それを言い出せないでいた。やっと母に告げたのは、年も明けてからだった。

    「あと五年なんて、もう、生きてないわ」

     母は、駄々をこねる子供の様に、声を荒げ、涙を溜めた。

     その夜、母と並べた布団の枕元に、風呂敷包みが置かれていた。開くと、黒地に、鮮やかに宝船が刺繍された丸帯と、藍色の着物があった。それは、古いアルバムの中で見たことがある、祖母の帯と着物だ。横になっていた母が、背中を向けたまま、言った。

    「おばあさんを連れて行って。熊本に里帰りさせてあげてください。お願いします」母方の亡き祖母は、熊本の生まれだった。

     しかし、昭和二十八年の西日本大水害で、実家は流され、親兄弟四人、行方不明となった。祖母は、熊本まで探しに帰ったが、遺体さえ上がらなかった。それから、二度と、祖母は、熊本へ帰ることはなかったそうだ。

    「わかった。これを着て、おばあちゃんの通っていた女学校に行ってみるね」

     母の返事は、ない。

    「あ、でも、私は、丸帯は結べないから、お母さん、熊本まで、結びに来てよね」

     母の肩が、小刻みに震えた。

     

         『まるたけえびすに』

       大阪府

       大西 和美 様

      「まるたけえびすにおしおいけ…

     意味も分からずに覚える京都の町屋の子たち。私もその一人だった。

      老人の介護は嫁がやるのが当たり前だった時代、私の母も例外なく姑である祖母の介護をしなければならなかった。大人達の間でどのような会話が成されたかは分からないが、未就学児だった私は小学校の入学を前に、母方の伯父に預けられた。

     伯父は京都の西陣でひとり暮らし。朝は部屋の側にあった糸を巻き取る機械の音で目が覚める。様々な色の糸が大きな機械でからからと回る様を見ていると、近所の叔母に「ご飯持ってきたから顔を洗いなさい」と叱られる。坪庭に出て、手水鉢で顔と手を洗い、朝ご飯。力職機の音が始まると学校に行く。

      放課後は家で人形遊びをするのが好きだった。力職機にセットする糸巻きの芯の古びたものには、残り少ない絹糸がまだ巻かれている。それをもらい、顔を描けば、キレイな絹糸の着物を着たお人形ができあがる。金の色糸はお姫様、銀の色糸は王子様。伯父がミスをして出た西陣織の端切れはお城の絨毯になった。たまに伯父が部屋をのぞき、はい、と手渡された新しい糸巻き。それは城の兵隊になり、ばあやになり、悪い魔女になった。

      豆腐屋さんのラッパを追いかけたり、鰻の寝床の家の入り口から坪庭まで従姉妹と競争したり、地蔵盆の数珠回しでちょっとずるをしたり。そんな数年はあっという間に過ぎ、小学5年生の秋に祖母が亡くなった。

     両親の元に戻ることになった私に、伯父が「持って行け」と風呂敷包みを渡した。開くと、牡丹柄の金の袋帯が入っていた。

     「20歳になったらこれに合うた着物を作ったげるよって、大事にするんやで」

     「ほんま?うちな、ピンク色がええ!」

     伯父と指切りして、私は自分の家に戻った。

      それから伯父との交流は年一度程度。中学、高校になりその頻度はさらに減った。

     そして大学2年の春。伯父が逝った。心臓麻痺だった。

     葬儀が終わり、形見分けのときに桐のタンスの奥からたとう紙が出てきた。広げると仕立て上がったキレイな黒留め袖と私の名前が書いた紙があった。

      「おっちゃん、ピンクがええて言うたのに…

      それからもう25年。留め袖を着て、帯を締める時に浮かぶのは、あの家で過ごした日々だ。つたない手で顔を描いた人形は今も、我が家のタンスの上で私を見守っている。あのかりそめの父の代わりに。

     

      選 

          『帯を広げる』

      秋田県                                      

      M.K.様

      「この振袖はな、嫁入りする時にお祖母さんと近所の着物屋さんとで選らばはってん。『この帯とあわせたい』って私が言うたら、『若いのに粋な趣味やねえ』って笑われたわ」母が帯を広げると、今と昔が繫がる。

     母の着物を着たのは一度きり。成人式には不参加で、大学の卒業式で初めて母の振袖と袴で出席した。社会人になってからは着る機会もなく、四年が過ぎた頃、職場の同僚の結婚式に招待された。一緒に参加する別の同僚は結婚式に着るドレスを持っていないという。

    「「いっそのこと、母の着物を着ようか」」私も彼女も実家住まいで、家に着物のある環境だった。これを利用しない手はない。自然と私達の声は揃っていた。

     早速、母に相談した。「ちょっと、桐箪笥の前に来てくれへんか」母はいつもと違う話し方をした。これは長い話になるぞ、と私は覚悟した。嫁入りで京都から秋田にきて三十余年。艱難辛苦を乗り越え、末っ子の私を含め三人の子を育て上げた母は、喜怒哀楽の感情が強く表に出る時、そして故郷での若かりし頃の話になると、京都弁に戻るのだ。

     桐箪笥を開いて、母は着物と帯の一つ一つについて語ってくれた。母の祖母が着物を自分の手で仕立ててくれた話。柄が地味すぎて父親に購入を反対された話。話し方、触れる手つき、向ける視線、全てが『懐かしい』と語っていた。その日、着物と帯を通して、私は母の歴史を垣間見た気がした。

     そして当日。私は薄いピンク色に扇と花々が散りばめられた訪問着に、橙色に金糸で文様が描かれた帯で臨んだ。雀が飛び立つように結ばれた御太鼓に母は「私の若い頃とは違うんやなぁ」と声を潤ませていた。同じように母親の着物を着た友人と私はお互いを褒めそやし、着物の話で盛り上がった。

     式が終わり、着物と帯はまた仕舞われた。次に帯を広げる時、母はどんな昔話を私に聞かせてくれるのか。それが楽しみである。

     

     

         『私の宝物』

    北方様HP用

      鹿児島県           

       北方 とし子 様

      私と一本の帯の出会いの話です。

    それは夏のある日のこと、デパートの着物売場に気がついたら私は立っていました。

    そこには浴衣や呂の着物の中に夏帯も並んでいたのですが、何故か西陣の袋帯に無性に心ひかれ、どうしても欲しくなりました。

    私は夫の年末のボーナス払いと言う約束で買って帰りタンスの奥深くにしまい込み、秘密の宝物となりました。

     ところがその一ヶ月後に体調を崩した私は入院する事になってしまいました。ひそかに買った帯をなぜながら、

    「あんたをしめないで死なれへん、必ず元気になって帰ってくるから待っててや」帯は「はい」と言ってくれたような気がしました。

     そして私は手術台の人となり、胃ガンで胃は全摘され入院生活三ヶ月。一命はとりとめました。

    年末になり退院が近づいたある日、夫がむつかしい顔で病室に入ってくるなり、

    「いつこんな高い帯を買うたんや!請求書が来てたぞ!」。

    ああ忘れてた、死ぬか生きるかのどたばたですっかり忘れていた。

    うかつでした。

    悪い事は出来ない、請求書でばれるとは思わなかった!私は思わず、

    「この帯をしめる迄は死なれへん、その一心で頑張ったんよ、それでええやんか」

    とっさに出た言葉。

    夫は「・・・・・。」

    退院をした日、帯をひろげて「帰ってきたよ、ありがとう」

    帯は「良かったね、お帰り」と言ってくれました。昔からのいい伝えで難を逃れるのに長い物を買うと良いと言われているが、この帯は不思議な力を私にくれたと思います。

     

     

        『帯の気持ち』

    齋藤様HP用

        愛知県 

             齋藤 まゆみ 様

     私が帯に興味を持ったのは成人式を迎える少し前です。高校生の時に従姉妹の結婚式があり、金刺繍の菊の御紋の入った、古代紫の中振袖でした。とても緊張しました。
    帯を締めての苦しさと華やかに着飾った嬉しさに戸惑いました。
    その後、成人式用の着物を母と探していた時に、西陣織の帯で
    中央に一つ壺の織られた帯に出会いました。とても気にいりましたが、着物が決まらないからと、母には「またね」と言われました。
    着物が決まっても、その帯では合わなくて、仕方なく諦めました。それでも、その帯の事は、何時も思っていました。
    何年か後に、いろ無地の着物を仕立て頂いた時には、自分で壺の帯と決めて探して頂きました。
    デパートの呉服売り場の方で
    何時もご相談にのって頂いてる方に、「壺の帯は、とても縁起が良いと言われていますよ」と教えて頂きました。残念ながら、
    一つ壺の帯はなくて、茶壷が沢山織り込まれた帯になりましたが、大好きな壺の帯に喜びました。
    その甲斐あってか、本当に私の人生は思う壺でした。新しい着物を選んでも、やはり壺の帯は探すということをして、何枚も壺の帯があります。
    壺の帯のお陰で、結婚、子育て、親の介護と様々な事がありましたが、
    何事も上手く乗り越えて、楽しく暮らす事ができました。
    着物や帯は、箪笥のこやしと言われますが、私にはお宝です。
    祖母や母が大切にしていた着物は、
    とても価値のある着物や帯で、それ以上に思い出が詰まっていて、
    その着物を仕立て直しては
    自分なりの満足するオシャレができています。洋服ではできない、
    帯を締める事は、日本人の知恵でしようが、身体の為にもなる実用的な大切な物だと思います。
    忘れられない片思いの帯に出会った事が素敵な着物にも、帯にも出会うきっかけとなりました。
    これからは、歳と共に前屈みになりますが、そうならないように背筋をぴーんと伸ばしてシャキッとして、オシャレに着物を着こなして、
    祖母や母のように「素敵ですね。」と言われるように歳を重ねて生きたいと思います。
    娘へと、我が家の大切な着物や帯を残して、これからも素敵な帯に出会える事を楽しみにしたいと思います。
    帯に携わる方々の思いで、帯を締める私達が幸せになれるのだと思います。着物を着られる方が少ないですが、帯を締めなくても、
    帯の刺繍の素晴らしい色彩など、
    目を楽しませてくれる帯が、
    もっと大切に扱われますように
    次の時代の方に引き継がれますように大切にしていきたいと思います。

     

     

         『言えなかったこと』

    下野様

        福岡県

             下野 えい子 様

    ごめんなさい。きれいな帯をつけていたあの人へ・・・幼すぎた私は恐怖から何も言えないままでした。

     それは大阪での出来事。

    “トリオト”というスーパーの中で、私は母さんに買ってもらったソフトクリームをチビチビと舐めていました。出掛け先でソフトクリームなんて子供にとっては夢なのです。

     すぐに着物を着た女性が私の横を通っていき、私のソフトクリームが彼女の帯に持っていかれました。

     彼女はそれに気づかず“トリオト”をスタスタと進んで行ったのでした。

     母さんはコーンだけを持った私に「食べるの早いねー」と声をかけたのです。

     ソフトクリームは食べてないことも、帯にそれをひっつけてしまったことも言えず、私は呆然と母さんの横を歩いていました。

     着物の女性ものちに驚いたに違いありません。

     きれいにソフトクリームがはがれ落ちていればいいけど、時間が経つうちに帯からダラーンと着物を汚したことでしょう。

     私は彼女の帯を、いや着物を台無しにしたわけです。

     そのときあったテレビ〈あばれはっちゃく〉だったか〈チャコちゃんケンちゃん〉だったか、クリーニング屋の息子が店を手伝った際、白いドレスを赤く汚したドラマのシーンがありました。

     息子は父ちゃんにこっぴどく叱られるのですが、ドレスの汚れが花に見えると逆にお客に感謝されたのです。

     四十を越えた私は今も、ソフトクリーム事件が、そうした方向に進んでくれていたらなあ・・・と願っているのでした。

     ずっとずっと私の心の中にはソフトクリームのついた帯が締まっています。

                               了

     

     

         『祖母の帯と口ぐせ』

    鈴木様

       徳島県 

        鈴木 綾子 様

      「詩吟でもやってみたら」。祖父が他界して沈んでいた祖母に、友人が声をかけてくれた。

     六十の手習いで始めた詩吟は、祖母の趣味となって、新たな希望が生まれ、まるで別人のように生き生きと元気になっていった。

     県の吟詠大会に出場する朝、祖母は利休鼠の色無地に、真新しい松の紋様の帯を締めて出かけて行った。そのしゃんとした後姿が、今も目に焼き付いている。

     大会から帰宅した父が、「今日は涙が出てよわった」と言う。「なんで?」と顔を上げたら、玄関でにっこりと立っている祖母の胸に、優勝トロフィーが輝いていた。

     私の幼い頃、祖母は病弱でよく入院していた。昔の写真はどれも憂い顔で年より老けて見える。二十歳で母を産み母も二十歳で私を産んだので、私の成人式に祖母は還暦だった。

     縁側で着物の仕立てをしながら、よく思い出話をしてくれた。「ばあちゃんは小学校四年までしか行っとらんけんど、人に負けるんが嫌いでな、困った時はいつでも、『おどれくそ、見よってみい!』と叫んで、何でもやってきたけん、できんもんは何やない!」

     阿波弁丸出しの祖母の口ぐせである。

     ――あれから四十年。

     祖母がかわいがってくれた私の息子を失った時「おどれくそ」と言ってみた。「見よってみい!」と叫ぶと、青空が眩しく広がった。息子の分までがんばろうと勇気が湧いてきた。

     私は詩吟も和裁も全くできないが、祖母の口ぐせは、確かに受け継いでいる。

     先日、母の箪笥を整理していると、松の紋様の帯が出てきた。母が大切に保存してくれていたのだ。西陣織独特の錦繍が今も鮮やかで、思わず抱きしめた。祖母の声が聞こえてくるような気がした。あの時の祖母と、ちょうど同じ年齢になった私、似合うかしら・・・・・・。

     今春、母校の入学式に祖母の袋帯を締めて臨んだ。身も心もしゃんとなった。いつか、この帯を娘に譲ろう。祖母の口ぐせと共に。

     

       

         『毎年お借りしていますよ』

    林様 姉妹3人 京都 義母の着物

        島根県

            林 志信 様

     三姉妹で島根に居る長女の私、同じ島根の次女。三女は京都に住んでいる。

    毎年秋に三女の家に三泊の予定で出かける。

    その中の一日は「着物ディ」と名前を付けて三姉妹で着物を着る。

    ユーチューブで覚えたくらいの着方ではあるが、着物自体を好きな三姉妹なので、ある年に京都観光は着物を着ようという話になった。

    最初は、着物も帯もすべて島根から持参し、何とか着ることが出来た。

     20年くらい前に同居だった三女のお姑さんが亡くなり、形見分けとして三女にも着物と帯を頂いていた。

    その時、三女が「お義母さんからもらった帯を合わせる」といい、形見の着物や帯を見せてもらった。まぁまぁの枚数ある。

    しかも私達が大好きなシックな柄ばかり。

    「いいねぇこの帯達」と言うと「来年はみんなでお義母さんの残した帯をつけてみようよ」という話になった。

    次の年は着物だけの持参になり三女のお義母さんの帯を三姉妹が借りて京都観光に出かけることになった。

    その後、三人の着物を着て出かけた写真をみて、同じく形見分けをしてもらっていたお義母さんの娘3人が

    「私達は着ることがないからあなた達に着てもらったら母も喜ぶ」と言ってたくさんの着物と帯を三女の家に持って来てくれた。

     あれから18年。

    毎年の京都観光。

    今では帯はお義母さんのものを身に着けることが恒例となった。

    写真を撮り三女の旦那様がカメラマンとなり毎年毎年インスタグラムに載せてくれている。

    形見分けの着物と帯を手放してくれた娘さんもそれを見て喜んでいると聞いた。

    私や次女にとっては、妹の嫁ぎ先のお義母さんの帯を毎年毎年楽しみに選んでいるのである。

    お義母さんも、まさか自分が残した帯たちを、嫁の姉妹が毎年毎年借りることになるとは思っていなかったに違いない。

    でも、毎年のことながら、とても楽しみなのである。

     そして、一つの発見がある。

    自分が選んで購入した帯でなければ、着物との合わせ方、帯揚げ帯締め。どれも合わせるのが楽しみでセンスやアイディア、いつも発見がある。

    さて、今年の秋の京都観光。

    どの着物と帯をお借りして合わせて着ましょうか。

     

       

         『帯はよみがえる』

    雪田様

       鹿児島県

            雪田 倫代 様

     三年前、初めて自分で帯を買った。京袋帯で、白地に赤や青、黄色の糸を使った七宝柄の刺繍が施されているものだった。お茶を習っているので、お茶会に着ていくためだった。高価なものだったが、白はどんな着物にも合わせやすいと言われて、納得して買った。

    初めてのお茶会は、野点だった。突然の雨。私は濡れてしまったが、着物や帯を気にするひまはなく、しつらえの異動や点て出しの準備に追われた。お茶会の成功のために夢中だった。十二時間以上経って、ようやく家にたどり着き、帯をほどいたときになって初めて、帯が汚れてしまっていることに気づいた。

    ショックだった。その黒っぽい染みはクリーニングに出しても落ちず、あきらめきれずにいくつかの店に頼んでも無理だった。お太鼓を結ぶと目立つ位置の染みで、普段使いにもできない。ひどくがっかりした。

    それでも捨てるに捨てきれず、タンスに入れっぱなしにしていた。着物を取り出すたび、染みのついた白い帯が見え、悲しい気持ちになった。

    今年の春、着物屋さんに行く機会があり、ダメもとで持参して相談すると、京都の悉皆屋さんに出しましょう、と言われた。染め直しができるのでは、と。好きな色を聞かれ、私は期待せずに紺色、と言った。

    今日、帯が届いた。畳紙を開くと、初めてこの帯に出会ったような気がし、胸がどきどきした。わざわざ帯を解き、布を染め、再び帯に仕立ててくれたのだという。職人の技の丁寧さに驚いた。想像以上の美しさの帯になった。初めにあった黄色を生かし、残りは濃紺に染め、摩擦で糸がほつれた部分も目立たなくなっていた。三年前、私のせいで汚してしまった帯が、鮮やかに生まれ変わった。

    三年前は、自分でお太鼓を結べなかったが、今は自分で着つけも出来るようになった。

    今年もまた、お茶会がある。私は再びこの帯を締めて臨みたい。

     

       

         『結べない帯』

    吉岡様HP用3

        神奈川県 

            T.Y.様

     暑い夏の日、神奈川県郊外の静かな街で私たちは午後六時に待ち合わせの約束をしていた。

     彼は同じ会社の同僚だった。豪快で気さくなベテラン社員が多い自動車製造工場で、年が近くて物腰が柔らかな彼は周りの人とは違って見えた。付き合ったばかりの私たちは近所で開催される花火大会を楽しみにしていた。

     おめかしをすると決めていたのに、生成り色の地に朱色の鬼灯が映えるお気に入りの浴衣を羽織り、私は鏡の前で悪戦苦闘していた。過去に何度か浴衣を着付けた経験があったが、その日は帯がうまく結べなかった。表地の桜の刺繍と裏地の市松文を両方見せたいのにバランスがうまく取れない。何度も結び直したが、約束の時間に彼が迎えに来ても出掛けられる状態にはならなかった。ごめんね、もう少しだから、と言いながらも帯は全然言うことを聞いてくれない。結局当初の予定を三十分も過ぎてしまったのに、彼は私の部屋で何も言わずにじっと待っていてくれた。

     その日の花火は美しかった。彼が私を待ってくれたからこそ見ることが出来たものだった。

     思えば彼を待たせることの多い人生だった。

     その後私たちは婚約したが、結婚の準備を進めているうちに彼の一年半のアメリカ出向が決まり、慌てて両家の顔合わせを行い入籍した。会社の休職制度を使い彼についていく調整をしていたが、急な人員不足を理由に足止めにあい、結局合流できたのは半年後だった。

     アメリカのミシシッピ州は広大な田舎だった。土日や昼夜を問わず働く彼を生活面でサポートする日々が数ヶ月続き、気付けば自分のキャリア形成に関する悩みが私の考えごとの大半を占めた。理解ある上司に相談に乗ってもらい、次のステップのために彼を残して先に日本に戻り、職場に復帰することを決めた。

     最終日の空港で彼の目尻に涙が浮かんだ。だけど、あの夏、帯が結べない私を待つのと同じように、彼は言葉少なに「アメリカに来てくれてありがとう」とだけ言って私を送り出してくれた。

     赴任が終わり日本で一緒に暮らし始めた今も、夫はよく私を待ってくれる。ある日は残業続きの私のために夜ご飯を作って。またある日はぐうたらな妻をベッドに残して休日の朝に洗濯をしながら。そんな夫の穏やかな雰囲気に誘われて、結べない帯の記憶は色褪せない思い出となり人生の折々で呼び起こされ続けている。

     

    創業110周年記念特別賞 

         『鯉に成長した金魚』

       宮崎県 

            星野 有加里 様

     「蝶々みたいで可愛い!帯、似合ってるよ!」

     母はそう言ったけれど、私には金魚に見えた。縁日の街をヒラヒラ泳ぎ回る金魚たち。

    「こんな帯、もうやだ!大人の帯にして!」

     『金魚帯』に抵抗したのは、小五の夏祭り。

    「中学生になったら買うから、我慢してね」

     母は困り顔で宥める。隣で真紅の帯を蝶結びした得意げな中二の姉が、遥か大人のお姉さんに見えて悔しかった。子供三人の教育費、家のローン。帯を買う余裕もなかったのだ。 

    五年生になった途端、兵児帯を卒業した級友達。自分だけが未だ子供の帯で縁日へ行くのが恥ずかしくて、友達の誘いを断った。

     でも中学生になった私は浴衣より流行の洋服を欲しがるようになり、帯は買わなかった。

     京都の大学へ進学し、二十歳を迎えた秋。

    母から電話が来た。「振袖を買ってあげる」と。「どうせ一回しか着ないから要らない」と断る私。だが、十年前は浴衣帯すら渋った母が頑として譲らず。成人女性の証、振袖。それは娘を持つ母にとって特別な儀式だったのだ。

    振袖を買う時、「帯はこれにする」と私は一目で即決。黒地に赤の鯉文様の帯。愛嬌溢れるまん丸な目が訴える。「私を連れてって」と。

    私は十年かけて金魚を卒業し、鯉へ成長した。

    その冬、ロンドン留学が決まった。京都で学んだ日本の誇り高き伝統文化と文学、そして振袖と共に海を渡る。鯉は空を昇っていく。

    ドレスコード指定のパーティに招待された時、悩んだ挙句思い切って振袖を着て行った。

    Fantastic! Japanese beauty is best!

    英国紳士、淑女達は目を輝かせ、賞賛の嵐。

    見たか!日本の伝統美を!と鼻高々な私は、「Fair feathers make fair fowls」(美しき羽は鳥を美しくする)と自慢げに長い袖をひらひら振る。鯉も帯の池ですいすい華麗に泳ぐ。

    その後も、パーティや卒業式、知人の結婚式で振袖は大活躍。その度に「どこが一回しか着ないからよ?」と厭味を忘れない母(笑)。

    数年前、ある結婚式で隣席の男性を見た刹那ドキ!と胸が高鳴った。お腹の帯の鯉もぴょん!と高く跳ねる。袖すり合うも多生の縁。

    二年後、私は振袖の長い袖を切る事になる。 

     

     

帯にまつわるエッセイ大賞とは