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2014年9月17日
今年も心温まる帯エピソードに包まれました。こんにちは!
先日、平成26年度
第14回「帯にまつわる話」エッセイ・コンクール の
受賞式が弊社にて執り行われました。
今回の受賞者の皆さんは
北は北海道、南は広島からと
遠方からの受賞者の方も京都においでくださり、
それぞれの心温まるエピソードを披露してくださいました。
感極まって思わず涙される方や
受賞の喜びをご家族と享受される方、
いろいろな想いがあふれたホッコリとした会となり、
改めて、「和服ってイイなぁ、帯ってイイなぁ」と各々が
思える時間となりました(^^)
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2014年9月17日
2014年度 大賞受賞作品大 賞 『美しい妙薬』
原田澄子 (滋賀県 七十八歳)
満開の桜、哲学の道は人であふれていた。私は入院中の義母を見舞っての帰りだった。手術後の徹夜の付きそい、連日の見舞い、それまでの自宅介護に、私の身心は疲れ切っていた。ふと、花見をしようと、思い立って、哲学の道へ、足を向けたのだった。
道の途中のとある店に、素敵な綴れ帯が飾ってあった。黒地に正倉院文様の帯。金糸と金茶、青、白の文様が織り込まれ、美術品のように美しい。私は店に吸い込まれた。
私の目は帯に釘付けだ。母の形見の無地紋付が、その帯の下に浮かんでくる。銀ねず色が帯にぴったりだ。母が喜寿のお祝いに作った着物。一回着ただけで旅立った。
あの着物はこの帯を待っていたに違いない。今日、ここに足が自然に向かったのは、この帯に出逢うためだったのだ。
私は義母の介護で神経をすり減らしていた。自分への励ましと、心の栄養が必要だった。美しいものに飢えていた。
あまり長い間、帯に見とれているので、店の女主人が、「お支払いは、月々でも結構でございます」と言ってくれた。高価な衝動買いになる。私は迷った。
美しい帯の誘惑に負けてしまった。私は、少々の前金で、その帯を買った。
桐の箱に入った帯が届いた。夫は私に財布を預けてくれている。義母に私がもっと優しく接することができれば、最上の薬ではないか。自分に都合よく言い聞かせた。
時々、帯を桐の箱から取り出して眺めた。織っている人の手の動きを想像した。気の遠くなるような精緻な作業の繰り返しから生まれた作品。それが私の身近にある喜び。
長い自宅介護の後、義母を見送った。追いかけるようにして夫の介護が続いた。
帯は美しい妙薬となり、折々に私の心を慰めてくれた。いま私は一人暮らしになった。
帯は、心楽しいお祝いの席への、出番を待っている。
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2014年9月17日
2014年度 優秀賞受賞作品優 秀 賞 『満員列車の中で―帯を』
若林敏夫 (埼玉県 七十八歳)
お袋は突然、帯を結び始めた。それも超満員列車の中であった―。
時は六十八年前、終戦翌年の昭和二十一年は三月上旬だった。京都の女学校へ単身就学中の姉の卒業式に出席するため、お袋と共に乗り込んだ列車の中でのことである。
列車には窓から乗った。今では想像もできないだろうが、到着した列車は超満員でデッキの扉が開かないのである。たまたま窓から降りた乗客がいて、私達母子はその窓から中の乗客に引き上げられるようにして乗車した。
デッキには中に入れない人達がぶら下り、機関車の狭い後部にさえ乗り込んでいた。終戦直後の混乱そのままの状況であった。
このため北陸線敦賀駅を出た大阪行の普通列車は遅れに輪を掛けて、すでに一時間半もの遅れとなっていた。
―卒業式に間に合うのだろうか―と心配した矢先だった。
お袋は風呂敷包みを解き、中から帯一式を取り出した。上は和服に割烹着を羽織り、下はモンペ姿のお袋は割烹着を脱ぐと周囲へ「少々ごめんなさい」の言葉を発して帯を締め始めたのである。
紐や帯の端を持たされて助手の格好となった当時十歳の私は、顔を赤くした。大衆の面前である。子供心にも恥しかった。周囲も好奇の目で眺めたのは当然であった。
お袋はてきぱきと進めた。その手捌きの鮮やかなこと。見る間に二重の御太鼓結びが見事に完成した。最後に帯留めを締めて、お袋はポンと帯をたたいて周囲に会釈した。
これには周りから感動の声がもれた。姿鏡も無い、手も十分に伸ばせないスシ詰め列車の中での見事な所作であった。
京都駅のホームの物陰でモンペを脱いだお袋の和服姿は、雑踏の中での花に見えた。式に間に合わないとみての決断だったのである。
遠い遠い昔の思い出ながら、私には忘れられない一駒である。中年女性の和服姿を見るたびに、和服の素晴しさと共に思い出している。
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2014年9月17日
2014年度 特選受賞作品特 選 『金襴緞子の帯と玉子焼き』
伊藤佳子 (埼玉県 七十三歳)
六十七年前、私は七才だった。父は私が三才の時、たった一枚の赤紙で戦いに行ったきり私の七才の祝いの時も生死不明だった。
私は二人の兄達の後に生まれた女の子。母は幼い時実母に死なれ、母には七才の祝いはなかった。やがて戦いは終ってもまだ日本国民の生活は貧しかった。こんな事情の中でも一人娘の私に晴着をとずっと思っていたに違いない。母のタンスに入っていた着物は大半が三人の子供の為に消えていた。
私の晴れ着は母の妹である叔母の物だった。叔母にとって何枚もない着物の一枚だった。母は若い叔母と何を交換したのだろうか。着物の次には帯だ。付属品は近所のお姉さんのを借りた。帯はもうそこにあった。銀色に赤・黄・緑等可愛らしい小花の帯だった。叔母からの赤地のちりめん生地に良くにあう。七才の祝いも無事に済み、母のタンスの内には着物と帯が仕舞われていたので、帯は借り物ではない。でもその帯を締めたのは七才の祝いの日だけだった。
横須賀の街の一角に俗にドブ板通りと言われる商店街がある。目の前は軍港があり、母の生家もその街中にあった。祖父は貴金属や時計等を商い職人も数人いた。戦い後はその一角の商店はスーベニ屋と呼ばれる外人相手の土産物屋の街となり、外人は日本の品が欲しく買い賑わった。母の生家も御多分に漏れなかった。或る日、母の生家のお店のショーケースの上にあの七才の祝いの帯を締めた私がいた。外人は「ワンダフル」と言った。その夜、食卓には厚い玉子焼きがのった。私には一切れ多かった。わかっていた。あの帯を外人に売った事を。私は悲しくも寂しくもなかった。父の生死不明の中、母の手一つで子供を守る事は大変だったから。
父は無事に生還出来、私の祝いの写真を嬉しそうに見ていた。母の面影が浮かぶと年ごとに温もりを感じ、ふっとその中に玉子に消えた金襴緞子の帯が今もって思い出す。