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2010年7月

  • 2010年7月9日

    2010年度 大賞受賞作品
    『母の丸帯』
    佐々木 恭子(神奈川県)
    「おばあちゃんの丸帯」が、五度目の出番を終えて戻ってきた。金色の地に鳳凰と鼓が浮き出た、ずっしりと重い華やかな帯だ。
    現在九十一歳の母が、二十歳の花嫁衣裳に誂えてもらった帯である。お嫁入りには、季節ごと、行事に合わせ、色とりどりの着物を箪笥一竿分、支度してもらったそうだ。
    昭和十六年春、両親は乳飲み子の私を連れて、父の転勤先である現在のソウル市へ赴任した。着物類も持参したのに、婚礼の一式だけは、母の実家に預けて行った。
    そして十二月には、太平洋戦争勃発。父も現地招集された。二十年八月に終戦。その年の秋に無事、親子三人で日本へ引き揚げてきた。もちろんリュック一つでの帰国である。
    母は戦後の生活が落ち着くと、好きだった着物や帯の夢を何度も見ると、私に話した。他の人に話せば、命があっただけでもありがたく思いなさいと言われるのは、分かりきっていた。二十代の母は、残念で悔しい思いを小学生の長女の私にだけ、こぼしたのだ。
    唯一助かったのが、実家に預けておいた婚礼衣装と丸帯である。引き取ってきて、宝物のように大事に仕舞っていた。その帯が役に立つ時がきた。私の結婚式である。お色直しの白地に花模様の振り袖に締めた。着付け師さんが「まぁ、なんて立派な帯だこと」と感嘆の声を上げてくださった。
    さらに妹の結婚式が三度目の出番。そしてそれから三十年経った三年前、私の娘の結婚式に四度目の出番を果たした。その折は、司会者が「おばあ様、お母様も締めた帯を締めての登場です」と紹介してくれた。
    そして昨年、弟の娘が引き振り袖に締めたのである。小柄な姪には帯がいちだんと華やかに映り、花嫁と帯は引き立て合っていた。
    七十一年前の丸帯は、五度も婚礼の花嫁を飾って、まだ輝きを失っていない。誂えてくれた亡き祖父母と、孫達の写真を飾って嬉しそうな母に、心からありがとうと言いたい。
  • 2010年7月9日

    2010年度 優秀賞受賞作品
    『助六の帯』
    脇本 史代(東京都)
    秋の日。銀座、晴海通りで尾行を開始した。ターゲットは推定年齢六十歳、茶系の縞小紋に白地の帯を締めた女性である。
    おたいこの片隅に、蛇の目を手にした助六の姿が刺繍してある。反対側の隅にさらさらと長唄の文句が若草色の糸で刺繍してある。
    それを読みたくて尾行してしまったのだ。手に千疋屋の紙袋を下げている。
    その人はあたりの色彩を全てモノトーンに変え、一本の美しい刺繍糸になって晴海通りを左へ折れる。折れた瞬間、その人の着物の裾が翻り、裾まわしが助六の鉢巻きと同じ江戸紫であることに気付く。それが美しいぼかしになっている。
    私はなおも助六の後を追う。まるで揚巻みたいに。そう思って少しおかしくなる。あんな凄い帯を締めて助六の帯を追う自分の姿を想像したのだ。やがてその人は歌舞伎座の楽屋口へ入って行く。誰かが愛想良く迎えている。
    なるほど。おそらく役者のご贔屓筋か、身内なのだろう。
    そこで私の尾行も終了。どんな人だろうと想像しながらついて来たが、顔を見る必要などない。話をする必要もない。
    こんな着物、こんな帯で遊べるような人だもの。オシャレな人に決まっている。素敵な人に決まっている。
    シャネルマークより百倍もカッコイイ。の後なんて、尾行する気になれないもん。
    晴海通りの縫い目が魔法のように消えて、あたりの風景に色彩とざわめきが戻った。
    嬉しい気分で歌舞伎座の看板を見上げる。夜の部に、団十郎の助六がかかっていた。
  • 2010年7月9日

    2010年度 特選受賞作品 その1
    『国境を越えた帯』
    飯田 ペギーさん(埼玉県)
    私はインドネシア出身の留学生で現在は社会人として日本で活躍している。これから述べる帯にまつわるエピソードは私が日本に留学する前の話。
    時は平成十一年、私は十六歳の高校二年生だった。日本語を学校で学んでいた私は日本語が上達できるようにインターネットのメール友達公募サイトに入会し、作成した自分のプロフィールに日本人のメール友達を募集していると書いた。入会してから一週間ぐらい経った頃に日本人の女子高生からメールが来た。辞書を片手に一生懸命に日本語でメールを返信した。メールのやり取りをして一ヶ月経った頃に彼女は手作りの浴衣を送ってくれた。送られてきた箱に着付け方の説明書が入っていたので、それに従って着付けに挑んだ。
    一番苦労したのはやはり帯を結ぶ事だった。浴衣とセットで送られてきた帯は最近よく見かけるワンタッチ帯ではなく、通常の帯だった。いくら強く結んでも何故か帯が緩んでしまう。昼食も食べずに三時間かけてやっと結べた帯の出来前はどこからどうみても綺麗とはいえない蝶々結びだったが、精一杯だった。早速この事をメール友達に報告した。彼女に「よく頑張ったね」と褒められた。
    ワンタッチ帯ではなく、通常の帯を送ってくれた理由をメール友達に尋ねてみた。その時に彼女はワンタッチより通常の帯の方が綺麗に見えるからと答えた。しかし、彼女が本当に伝えたかったのは帯の見た目ではなく、帯を結ぶ大変さを実感したことで出来上がった時に達成感があるからだと思う。
    日本へ来て今年で9年目。和服が大好きだという気持ちは今でも変わらない。大学の卒業式に袴をはき、大学院の卒業式に成人式の時に着られなかった振袖を着た。それだけではなく、去年は自分の結婚式で白無垢を着た。毎年ではないが、夏祭りに行く時は浴衣を着る。私は日本人ではないが、日本人に負けないぐらい和服が大好き。母国ではなく、着物を自由に着られる日本に生まれればよかったと今でも思っている。
  • 2010年7月9日

    2010年度 特選受賞作品 その2
    『花台(はなだい)の帯』
    池田 智子さん(神奈川県)
    「まあ! きれい!」
    昨年の春。焼津の宿で私の目にとび込んできたのは大壺にどっさりと活けられた山吹の花だ。黄金色の小さな花がつらなって咲くたくさんの枝がかろやかに広がり、生命(いのち)がほとばしるようなエネルギーに溢れていた。
    「朝、裏の山で採ってきましたの」
    和服が似合う女将(おかみ)がほほ笑んだ。私は山吹の花の前に立った。磨きぬかれた床に黄金色のシャワーが映っている。花に見とれていた私はふっと花台からはみ出て敷かれた細長い織物に視線を落とした。淡いピンク地に藍色の雲が流れ、紅の花が舞っている絵柄だ。よく見ると帯のようだった。
    「女将さん、この敷物は帯かしら?」
    すると、女将が織物の端を指先でそっとめくって見せた。
    「ええ。普段づかいの帯です。こんなになってしまいました」
    帯の裏側はすりきれて、芯地が見え隠れしている。
    「よく使いこんだ帯ですね」
    「これは曾祖母から祖母へ、祖母から母へ。そして母から私へと伝わった帯です。八十年以上になるかしら。とっても締めやすくて、どんな着物にもピタッとくるんです。でも、これでは使えません。だから、と、いって可哀想で捨てることもできずに箪笥にしまったままでした。花台の敷き物に何かないかと探しているとき、この帯を敷いてみました。どうですか?いい雰囲気でしょ。帯が花や壺を引きたて、ロビーの空気まで落ち着かせています。着物に締めたときと同じ役割りをしてくれる……そう思っています」
    宿で過ごす間に私は何度となく山吹の花の前を通った。入浴のとき、食事処へ向かうとき、海辺への散歩で出入りするとき。そのたびに足をとめた。花台に敷かれた帯には四人の女将の帯への愛着と物を大切にする姿勢が感じられた。和服に締められる本来の目的とは遠いところでも帯はしっかりと輝いていた。宿の四代・八十年の歴史と共に女将に愛された帯はこれからも宿を守る人と訪れる人のそばで生きていくことだろう。
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